雲 南 雑 感 ー民族と食と子供たちー
塩見 定美
山田さんから執筆依頼の電話を受け、気軽に「何とかなるでしょう」と答えた。ところが、いざ書く気になってみて、テーマを設けて文章にするには、収集した情報と知識があまりにも乏しいことに気がつき、従って、戒名は「雑感」となった。つまり、今回の雲南行は(も)、特定のテーマを追求しようとする意図をもたない、企画・同行者には誠に申し訳のない旅であったといえる。
そんな10余日間であったが、あえて印象を問われれば、少数民族の生き方、固有の食、これらの環境の中で育つ子供や若者たちということになるように思う。但し、私は文化人類学・民俗学や食文化の専門ではないことを断っておきたい。
なお、意図のない旅といったが、旅行プランに注文をつけているのではない。この「アジアを歩く」旅行中に限ってアイデインテイテイ が統合し、これまでにない充実感を味わわせていただいている。
民族の和を育むひたむきな生き方
少数民族に対する関心の一つは、民族間の人間関係・人の和であった。中国は56の多民族からなるが、雲南には26の、そして西双版納には12の少数民族がうまく住み分けているという予備知識が、その要因に興味をもたせたわけである。
混明のホテルで、少数民族の説明を受けた中国・雲南民族博物館副館長の尹さんは、「タイ族は平坦部の水田地帯に住む。ハニ族は雨の多い太平洋側山間の中位に住み潅漑が活発で棚田が発達している。イ族は干ばつ地に住んで焼き畑農業を営むが生活環境は悪い。しかし西双版納では争いはほとんどない」という。また、西双版納を案内してくれた唐さんは、「西双版納は土地が広く、自給分(の食料)は穫れ(民族間の)争いはなかった。しかし、山地民族は自給自足で(政府は)陸稲の指導にも力を入れていない」という。2人の話はほぼ同じである。
実際に少数民族のムラを訪ねてみると、平坦部にはタイ族、山間中腹にはハニ族、山間上部にはラフ族の住み分けがみられる。物的生活は、平坦部においてもムラの間で貧富の差を感じるが、概して山を上るほどに貧しさが加わる感じを受ける。しかし、民族間の人間関係は、ハニ族のムラで女性たちが気軽に(と思えた)ラフ族の住居へ案内してくれたように、民族間に敵対の雰囲気は感じられない。また、山地の民族が他民族の住む平坦地の市場へ下りて、自分の産物を売りその代金で生活用品買って山へ帰る姿をみかける。こうした交流がみられるのは、お互いに他民族を受け入れる意識なり規範があるということなのであろう。
ところで、民族は、自然条件や外部からの異変に対して運命を共にしてきた「運命共同体」、同一政権に服従してきた「政治的共同体」、ほぼ同じ文化とそれの伝統をもつ「文化共同体」、経済をともにしてきた「経済共同体」の複合した共同集団である。そこには共同集団を維持するための規範や法律が生じ、これが民族を規定する要因となっている。
また、宗教も一つの生活規範であって、民族の重要な規定要因である。宗教は永い間人間の内心の要求を満たし、中世以降は多くの宗教規範が法律化されて法の思想に深く反映し、国家と人類の運命・文化を支配してきた。このように宗教は内面的な性格をもつだけにそこからの離脱は困難を伴う。
雲南の少数民族においても、過去には常に民族を維持するための攻防があり、辿ってきた運命や服従してきた政権は民族によって異なるようである。また、少数民族間の争いにおいても、その中で多数を誇る民族が権力をもって生活の容易な場所を占め、少数派民族ほど不便な場所へ引き下がった経緯があるようである。副館長の尹さんも、「西双版納に最も早く住んだ集団は、山の一番高い所へ移動した(注:西双版納の暑さに適応できず山へ入った民族もある)」という。
宗教においても、ちがいがみられる。タイ族は小乗仏教を信仰し、他の民族の多くはアニミズムを信仰して霊の存在を信じるそうだ。西双版納のタイ族のムラへ行くと必ず寺が眼についたが、1村(集落)に1寺があるそうで、祖先を崇拝する意識はかなり高いようである。少数民族の宗教心は、一戸の家もしくは一人の人間の中に神と仏が同居し、困った時に都合のよい方に都合の良いことだけを頼む日本人とはかなり隔たりがあるように思う。
その他、当然ながら衣と住にもちがいがみられる。民族衣装は典型的で、デザインや布地の他、染色か刺繍かのちがいもあり、また、同じタイ族でも支系によって異なる。住居も、同じ高床式ではあるが、タイ族は複数の部屋をもって用途が決められており、ラフ族は1室が炊事場と食堂、寝室、物置を兼ねている。
このように概観してくると、少数民族たちは、雲南なり西双版納という同一地域内に隣接して住んでいても、確かに異なる民族である。では、複数の民族が「仲良く」住み分けているとすれば何が要因なのだろうか。また、なぜ雲南なり西双版納は少数民族の宝庫といわれるのだろうか。
その一因として、少数民族たちは、よりよい人間関係を築くための意識なり価値観を潜在的にもつように思う。それは民族によって異なるが、数民族を羅列すると、勤勉、忍耐、平等意識、優しさ、人情、信義、義理、礼儀、他人に対する配慮、老人を敬う心、子どもを大切にする心などで、民族によっては現実的感覚にも優れているといわれる。この中で、勤勉、忍耐、思いやりは複数の民族に共通してみられるように思う。これらの意識・価値観は、他民族からの制圧を受けながらも失わなかったものもあろうし、逆に制圧によって得たものもあろうが、そこからは人生を真面目に生きようとする性格が感じられる。
こうした意識・価値観をもった少数民族たちは、勤勉さや忍耐力を基礎にして、よりよく生きるための創意工夫を加えてきた。そして、現実にも即応できる能力で他の民族との交流で得た知識を活用し、生活が向上するにつれて思いやりの心が自由・平等・博愛のモラルを育ててきたのではないか。一方で、自給自足に近い生活を送る少数民族たちは、自分たちの勢力を自覚し、少数派・弱者としての「分」をわきまえることが、民族を維持する途につながるという価値観をもつようになったのではないか。
少数民族の住み分けは、こうした2者の価値観がうまくマッチするとともに、中国大陸の中では食料生産に適した雲南なり西双版納の自然条件が加わって支えられてきたように思う。そして、「タイ自治領は中国ではない」といわれるように、民族を越えて漢民族に対抗するための結束・絆をもつに到ったのではないか。
日本の農村においても、活力のある地域の人々の生活には、共通して平等意識、自由、連携・協調関係がみられる。しかし、多くの地域ではこうした人間関係は未だ育っていないのが現実であって、むしろ、経済合理主義は追求するが連帯意識は失われてきている。私たちは少数民族に学ぶ点があるように思う。また、世界に眼を向ければ、世界平和最大の課題は「法」の専門家も目指す世界統一国家の実現であろうが、国を形成する基礎である民族の意識がその実現を阻んでいる。雲南なり西双版納には、これの解決の一つのヒントがあるのかも知れない。
日本の伝統食に並ぶ長寿食
食に関する関心は、西双版納の食生活が日本に似るということと、民族間にどんなちがいがあるのかということであった。民族の住み分けは、それぞれの民族固有の食文化をつくりあげてきたはずであり、加えて、標高差を伴う住み分けは、自然立地と「適地適作」の関係からみて、穫れる食材が異なるはずである。
市場や民家で眼についた食材を列挙すると、穀類ではうるち米、もち米、豆。野菜類では青トウガラシ、ナス、キュウリ、ニガウリ、シロウリ、ネギ、菜類、インゲン、ダイコン、レンコン、サトイモ、タケノコ、ニンニク。魚類ではウナギ、ナマズ、フナなどの川魚。肉類ではブタ、トリ。香辛料ではトウガラシ。加工品では豆腐、納豆、ユバ、コンニャク、ナレズシ、トウモロコシ酒などである。
このように、少なくとも食材においては、日本の伝統食材と大差がない。特に、野菜類は市場をみた限り品質はともかく種類はかなり豊富で、日本の市場と比べて違和感は少ない。品質はともかくといったが、中には日本の都市近郊農家がつくるような、見事に結束された菜類(日本では軟弱野菜)もある。また、魚類は日本の市場ではみられない量の淡水魚が売られており、川魚をかなり食べるようだ。そして、更に眼につたのは葉で包んだ加工食品であった。
豆腐、コンニャク、納豆、ナレズシには、近親感よりも意外な感じを受けたが、同時に日本食に似るといわれる理由の一端が理解できたようにも思った。中でもナレズシは、琵琶湖のフナズシを見慣れている私には印象が強かった。発酵食品であるスグキ漬けやシバ漬けなどは京都を発祥とするが、これらは海から離れて魚が入手しにくいために、野菜料理に工夫を加えて宮廷貴族などに供したものである。参考までに、納豆も京都で発祥したが必要性が乏しく、茨城県の水戸を中心に関東で普及したようであり、京都では「一休寺納豆」にその名残がみられる。また、天然の素材で包む食品は、竹の皮を使った京都の「鯖寿司」や柿の葉を使った奈良・吉野の「柿の葉寿司」などが知られているが、これら包装材には保存や携帯を可能にする防腐効果があるといわれる。いずれにしても、西双版納のナレズシや葉の包装食品がいつの時代からつくられたのか知るところではないが、日本の発酵食品や包装食品との関連性は関心をもたせるところである。
では、民族間の食にはどんなちがいがあるのか。現地で食べた民族料理の分析や感想は他の人にお願いするとして、抱いた関心事を推測で述べておきたい。
1つは、食材の入手方法と種類に伴った食の創造である。野菜(正確には、『野菜』とは自生する植物を含む用語であり、『蔬菜』とは人の手を加えて作る植物に限定した用語と思われるが、明確な定義はない)や動物の入手は、平地では早くから栽培・飼育が行われていたであろうが、山地では狩りを好む民族が野生動植物の狩猟や採取によって入手していたようである。彼らは日本でいう「マタギ」の生活であって、俗にいう「清浄な食材」の利用者ともいえる。こうした食材の入手方法と種類・質のちがいは、固有の食文化を育ててきたと思われる。
2つは、おかれた環境に伴った食の創造である。山へ追われたミヤ オ族が創りだしたといわれる「ナレズシ」は、塩分不足を解決するための生活の知恵であった。こうした雲南なり西双版納の自然的・社会的環境のちがいは、おかれた環境に合わせた食文化を育ててきたと思われる。
3つは、嗜好品をめぐる食の創造である。現在の山地中腹には、換金目的の茶園が多くみられるが、ハニ族などは、約千年も昔の自給自足時代から茶を栽培した歴史がるといわれる。従って、茶にまつわる食を育ててきたと思われる。
主食である米はどうだろうか。副館長の尹さんは、西南部は「もち米文化圏」だという。ムラ々で聞いた米食の実態は、「もちとうるちは半々に栽培する。うるちは3食中1食でもち米中心の食事である。もち米の食べ方は日常はおこわで祭りはちまき状にして食べる。しかし若者はあまりもち米を食べない」(タイ族)。「焼き畑の時はむらさき稲を栽培していた。水稲は13年前に始めたばかり。普段はうるちで祭りはもちを食べる」(ハニ族)。「もちとうるち半々の食事。農繁期は3食もち米をたべる」(花腰タイ族)。「祖父の代に山から下りたが山の時は主に陸稲を作った。もち米はあまり食べない」(旱タイ族)などであった。
つまり、現在の日常食においても、3分の2から3分の1はもち米食であって、日本人からみればその割合は相当高く、確かに「もち米文化圏」といえるが、若者のもち米食の減少傾向から考えて昔はもっと食べられていたのであろう。しかし、民族間にはちがいが窺え、上に述べた話に限れば、もち米食はタイ族など平地民族で割合が高く、山地民族で低いことになる。なお、これが事実なら、陸稲イコールほぼもち米と理解していた私には意外な感じを抱かせる。
ところで最近、日本の伝統食が健康・長寿食として高い評価を受けている。WHOは1992年に先進21か国の食事調査を行い、長寿を保つ食として日本の食が世界で最も優れると報告している。もっとも、日本人の長寿は医療の発達・普及によるところが大きいが、健康に食生活が深く関わることは明らかである。日本の食が評価されている点は、米の多食による脂肪摂取の抑制、豆類食による植物性蛋白の摂取、多種類の野菜食による繊維の摂取、海草食による多様なミネラルの摂取、魚食によるタウリンの摂取などである。これは、京都府立医科大学がガンを防止する食としてあげる内容とほぼ同じである。また、発酵食品も健康に関与するらしく、京都のスグキ漬けからは、体に有益な菌類が発見されたようだ。
そこで、少数民族の寿命はどうなのか。1960年頃までの西双版納は、伝染病の蔓延で短命であったそうであるが、現在では解決されている。サニ族のムラで会った老男性は80歳といったが元気であったし、ハニ族のムラで会った娘の祖母は90歳ということであった。十分に長寿の人たちがいるようだ。ということは、少数民族の食が、健康・長寿食として評価される日がくることを予感させる。
そんなことを考えていると、市場でキュウリが気になったことを思い出した。日本のキュウリは早くから改良が進み、現在の品種の系統は非常に複雑であるが、生態的な分類では「南支キュウリ」と「北支キュウリ」を基本に発達している。前者の系統には現在スーパーマーケットで主流をなす短形のキュウリが、後者の系統にはほとんど見かけなくなった長形の「四葉キュウリ」(『四葉』は、ヨツバではなくスーヨーと読む)がある。ところが、西双版納の市場では「四葉キュウリ」が主流で、大型のウリもみられた。現在の日本でこんなウリ類がみられるのは、「桂ウリ」などの伝統野菜が並ぶ京都市の野菜品評会ぐらいだろう。こうした品種のちがいは、日本のように生食あるいは浅漬で食べるか、火を使って調理すかの差によるのだろうが、私が子供の頃には、煮て味付けしたキュウリを食べた記憶がある。最近、こんな食べ方は京料理の料亭ぐらいでしか会えなくなった。日本人は伝統食材さえ食べ方が変わったことに気がついているのだろうか。
健康な心が育つ子供たち
子供や若者に対する関心は、心・知・体が育つ環境、特に「心」が育つ環境であった。中国は、急速な人口増加で少子政策をとっており、都市部では「虎の子」の1子を学校へ送り迎えする親の姿がみられる。しかし、少数民族は 2子はよいというのが全般的な印象で、ラフ族の家では3・4人の子どもがいるようであった。これは、少数民族を保護する政府の「温情」なのか、あるいは観光資源として利用する意図があるのか、更には自治区という「独立国」の強みなのか。いずれにしても、「老人大国」が目前の日本と異なり、行く先々で子どもの姿がみられて活力を感じ安心感を与えてくれた。
だが、子供たちの表情をみていると、標高差によるちがいを感じる。平坦部の子供は一様に明るく多くが履き物を履いており、山を上がるほどに表情は暗くなり裸足である。このちがいは、外国人と接触する頻度もあろうが、貨幣経済進展の中で貧富の差が表情に現れてくるのであろう。
少数民族の教育環境はどうなのか。義務教育は、漢民族では6・3制であるが、少数民族は5年もしくは6年のようである。少数民族の中では経済的に裕福と思われる平坦部の花腰タイ族のムラでは、中学進学者は3分の1程度と聞いたが、日本の大学進学率にも達しない割合である。このムラを案内してくれた7人姉妹で29歳の女性は、親が早く死亡し誕生日は知らないし、学校は小学4年を終了していないので文字はよく分からないといったが、願いは「(作物の)多収と子どもが元気で勉強すること」だという。彼女の意識は、日本の母親も一般にもつものであり、その言動から教養のなさは感じられなかった。校外教育としての地域教育が行き届いているのではないだろうか。
そこで、地域社会の規範は、子供の意識と行動に大きな影響を与えるといわれるが、少数民族のムラには、どのような子供の教育環境があるのだろうか。
ハニ族のムラでは、「男女の使う階段(梯子)はちがう」、タイ族のムラでは、「主人の部屋はみせられない」と聞かされ、父系氏族制なり家父長制による不平等な慣習の残存を感じさせた。他方、タイ族のムラ々では袈裟姿の子供が歩き、寺院をみれば多くの子供の姿があった。タイ族の男性は、一度は僧侶を経験して修業に励み徳を積むのが習わしで、子供は6・7歳になると寺に入って学習するようだ。寺の生活で学ぶ「生き方」は、その後の生活の基礎になっているにちがいない。つまり、小乗仏教は解脱(束縛からの解放)や涅槃(悟り)の境地追求が教えであるから、これの信仰民族に限れば、家長絶対優位の慣習の中にも、子供を大切にし、その存在を認める意識が醸成されているのではないか。
とはいえ、学校教育の効果もみられた。ハニ族の村を案内してくれた娘は高卒だそうで、年長者にリーダーシップを発揮する姿はムラ屈指のインテリと思えるムードがあった。学歴をもつ彼女には、ムラを背負うプライドと責任感が醸成されているのだろう。なお、この姿勢は途上国の高学歴青年一般にみられる。
少数民族と漢民族の生活格差を縮小するには、子どもたちの教育の充実による視野の拡大が一つの課題であろう。しかし、工業化志向に伴って効率の追求を第1義としてきた戦後日本の教育は、いじめや校内暴力など思いやりの喪失をもたらした。つまり、競争・学歴社会は、「記憶術」を「伝達」する受験予備校の普及にみるように、子供に考える力を与え、知恵を引き出し、無限の可能性を認めるという本来の教育理念にはほど遠い教育を行ってきた。私の知る大学教授は、最近の学生はワープロを使うので漢字を知らないと嘆き、こうした卒業生を職業人として受け入れる私は、彼や彼女たちの幼稚な文章を嘆いたものである。どうやら、学歴が必ずしも教養や人格を高めることにはならないようであるが、少数民族には今のところ日本の子供や若者に感じる危惧は少ないように思う。
今一つの印象は、子供が「群れている」ことであった。休日のタイ族のムラでは、大勢の子供たちがついて歩いてきた。プレゼントを差し出すと逃げたり恥ずかしそうにするところをみると、いちがいに「物ほしさ」とはいえないようだ。休日は塾通いや稽古事に費やし、「一人遊び」の心理に与える影響が問題になっている日本の子供と異なって、群れることを許す地域の教育環境が「健康な心」を育てているのではないだろうか。
ここまで書いた1月28日、少々のことでは驚かないこの頃でもショッキングと思われる事件が起きた。中学1年生の女性教師刺殺である。この事件に対し、京都教育大学小寺正一教授(道徳)が次のようなコメントを寄せていた。「今の子供は自分の行為がどのような結果を招くか読めないのではなく、読みとろうとしない心理が強まっているようだ。感情をストレートに表現してさえいれば『個性派』とみなされる考えが広まっている影響ではないか。社会的なルール、自分の考えをコントロールできる力が身に付く幼少期のしつけについてもっと考えるべきだ」。そして、その後のナイフ事件の続発は、地域の規範と思いやりの喪失が検証されているように思われる。
慣習は、一般に旧く悪しきものとして排他する風潮がある。しかし、慣習には良き慣習もあることを忘れてはならないと思う。少数民族には悪しき慣習もあろうが、地域の良き慣習が子供に望ましいしつけを行う側面が強いのではないか。
ついでに、青年にもふれておきたい。少数民族の若者たちは、自我意識が発達し、人生で最も楽しいとされる青年期をどのようにとらえているのだろうか。
結婚適齢期には、女性は15・6 歳、男性は16・7 歳から入るようであるが、タイ族のムラで結婚の平均年齢を尋ねると、男女ともに19歳で「自由恋愛」だといった。「自由恋愛」という言葉は、意味の解釈に苦しむが、結婚は、一部の民族では親や仲人の介入が強いものの、多くの民族では恋愛結婚に対する拘束は少ないようで、日本よりも自由なのかも知れない。また、若者グループの存在の有無を聞くと、無いというよりも必要がないといった雰囲気の返答が返り、ムラが共生・相互錬磨の場であるという意識・慣習が継承されているように感じた。そして、民族の踊りをみせてくれたハニ族の村では、日本の農村では出会えない数の若い男女の姿が印象的であった。なお、働く若者たちの年齢はどうかといえば、市場では10歳前後と思われる売り子の姿が多く眼についた。
「青年」の概念は非常に曖昧である。一般的には、14.5歳から24,5歳までが「青年期」といわれてきたが、研究者によってかなり差があり、時代によっても異なる。現代社会は、社会の進歩に対応するための能力を獲得する必要から青年期を延長したといわれ、日本の研究者には上限を30歳、最近では35歳とする人もある。しかし、青年期の別れには、結婚が重要な意味をもつという説があり、職に就くこともこの別れに関わってくると思う。
こうした考えを前提にすると、少数民族の若者たちは、12歳位から10代の終わりまでを青春であり青年期と感じているのではないだろうか。とすれば、彼・彼女たちの青年期は日本と比べてかなり早く到来し、かつ短いことになる。しかし、長い青年期が幸せとはいえないと思う。重要なことは、次に来る長い大人の期間に備えるためにも、いかに生きがい感・充実感が感じられる日々を送るかであって、これが青年らしさといわれる「明るさ」につながるのだと思う。
日本農村では、若者が少ないと騒いでいる。政府やマスコミが騒ぐ視点は、農業や地域社会崩壊の危惧に偏重しているが、私は、より重要な問題は個々の青年にとっての「青年期の看過」にあるのだと思う。同年齢層の数が少ないことは、孤立感を深め相互錬磨の機会を喪失して生活意欲の喪失につながり、これが青年期を見過ごすという人生にとっての重大事をもたらすからである。現在の少数民族の若者には、こうした危惧は少ないように感じられて、うらやましさを覚える。
少数民族と食と子供たちのゆくえ
今日では議論があるだろうが、「社会の近代化とは、農業国から工業国への移行である」といわれてきた。例えば、約200 年前のアメリカは80%が農家人口であったし、30数年前の日本は農業国であった。中国においても2・3次産業への移行は確実に進行しており、未だ農業労働の多くを人力に頼り、家族総働きを必要とする少数民族の農業にも兼業化の波が押し寄せているようである。今後、工業の発達は農業の機械化をもたらし、それは日本の田植機の普及が兼業化を進めたように、少数民族の兼業化をも更に進める条件を生じさせるであろう。
兼業化はしかし社会的移動の進展をもたらす。社会的移動の進展は、視野を拡大し、自給自足の少数民族も、外部社会との交流の乏しさがもたらした「小宇宙」的なムラから脱出し「分」に甘んじる意識を変える可能性が拡がる。
それは、少数民族にとって幸せなのか不幸せなのか。狩りで暮らしていたアフリカの原住民は、白人の都合で狩りを禁じられ、観光客相手の狩りをするか白人や白人と原住民の混血に雇用されて生活しているそうだ。西双版納においても、中国政府は焼き畑を禁止し山地民族は山を下りるよう強制されたと聞いた。これは食を含む生活環境の変化をもたらし、更に、他の民族との同化を促して固有の文化が消滅する可能性を高める。加えて、社会的移動の進展は、若者のもち米離れにみるように、「もち米文化圏」の衰退をもたらすかも知れない。こうした状況下にあっても、上述したアフリカの原住民には、貧困に耐えながら狩りと民族の維持に強く執着する人々がいるという。雲南なり西双版納にもこうした人々がいるであろうし、現れるであろう。ここに民族の規範や文化の根強さを感じる。
一方では、新たな文化の創造も考えられる。食文化を例にとれば、山の中腹に住むハニ族のムラでは、13年前に水田を始めたばかりだといい、焼き畑跡には政府の勧めで茶が植えられていたが、樹齢は一様に若かった。こうした米作の変化は、いつの日か健康や長寿に与える陸稲と水稲、もち米とうるち米の比較を明らかにし、米食のあり方が提言されるかも知れない。また、健康飲料である茶の普及は、作られていたらしい麻薬に代わって、健康・長寿食を補強するかも知れない。そして、より優れた食文化が生まれるかも知れない。但し、これの創造と普及には、美食志向ではなく現在の食の再編志向という条件が必要になるだろう。
そこで思い出すのは「巨椋池(おぐらいけ)」周辺住民の食である。かつて、秀吉の居城京都・伏見の桃山城下には、「巨椋池」とよばれる周囲16kmの湖沼が広がっていた。この湖沼は万葉歌人の歌材としても有名であるが、水生植物と淡水魚の宝庫でもあって、湖沼の周辺には固有の食文化が育った。戦前の徴兵検査では、この地域の若者は骨格が優れるために、すぐに見分けがついたといわれる。つまり、小魚などを使う料理が発達し、日本食最大の欠点であるカルシュウム不足を補ったわけである。この湖沼は、日本最初の干拓事業によって昭和8年から水田に変わった。食文化は、干拓後も残った水面や近くの「淀川」の魚で細々と守られてきたが、昭和30年頃から都市開発によって水質汚濁が急速に進み、食用に適さなくなった。伝統食の調理法は、今も琵琶湖の魚を使って継承されてはいるものの、当然のことながら常食ではなく、他の地域との体格差は消滅した。
戦後日本の食生活は、先ずパン食の普及によって伝統食を食べる頻度が低下した。昭和60年代以降は「飽食の時代」に入って健康・安全・高級・簡便が食生活のキーワードとされているが、特に女性の社会進出は簡便な調理を志向させており、ここにも伝統食の衰退が窺える。そして、今の子供たちの食生活は、現在の日本人の寿命を全うできないだろうといわれる。
日本の食生活の変化は、経済成長に伴うところが大きい。今後の雲南なり西双版納も、地域開発による自然環境の破壊や所得の向上が食生活の変化をもたらし、巨椋池周辺のように地域固有の健康食を失う可能性がないとはいえない。
ガイドの黄さんは、「雲南の観光開発はこれからだ」といっていた。経済発展は所得を高め、所得は学歴を高める。学歴と教養・人格は必ずしも整合しないといったが、知識を向上させることも確かであり、加えて、外社会との交流は新たな社会規範を創るだろう。これが子供の意識・行動にどんな影響を与えるのか。
日本経済の長期低迷は、日本人の創造力の乏しさがもたらしたという意見が出始めた。先進国を真似て工業・経済の成長を遂げてきた日本は、真似ることがなくなり、自分で新たなものを創出する必要性に迫られた今、その能力がないというわけである。私も、日本人はユダヤ系と並ぶ頭脳をもつ民族と思ってきたが、最近は能力に疑問をもっている。これは、もって生まれた素質に原因があるのではなく、先にも述べた効率追求による経済成長のために、憶え込ませることに専念し創造力を与えない教育(『教育類似行為』とよぶ)に一因がある。そして、創造力の乏しさは新たな社会規範の創出にも影響するように思う。
経験は慣習に似ると思う。一度利便性を経験した人間が元の生活へ戻るには困難を伴うだろう。少数民族は、子供たちの教育を含めて日本の辿ってきた途を歩むのだろうか、それとも「わずか30年の物的繁栄」を教訓に生かすのだろうか。