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 都市と農村−モンスーン・アジアのデサコタ的空間   渡部忠世

洛中洛外図屏風に描かれた京都の都市空間(室町時代)

1.都市のイメージ、農村のイメージ

 近世に江戸や大阪(当時は大坂)を訪ねる機会のあった西欧人たちは、ここを、しばしば「大きな田舎」と称したという。江戸は当時、世界でもっとも人口の多い大都会であったというが、人口が数十万あろうとも彼らの目には「田舎」であって、「都市」とはうつらなかったらしい。なぜだろうか。

 西欧における都市のイメージは、おそらくは、周囲を高く堅固に石垣で囲った中世の城郭都市(borough)に出発しているのではなかろうかと思う。すでに石垣のない近世以降の都市になっても、都市という通念だけは継続しているように思われる。それは、周辺の田舎−農村とはっきりとした輪郭で明瞭に区画された空間なのである。都市の空間のなかに畑や牧草地などが混ざることはありえない。したがっては、都市の居住者とはすべて非農民の集団であって、農民と混住するような生活風土とは無縁の世界である。

 これに対して、近世のわが国の都会あるいは町とは、どこといった境界もない平坦な土地に家並みがひろがり、いつとはなしに周辺の村、畑や水田と混じり合ってしまう形態をとる。船曳達夫が最近も「町といわず村といわず、大都市を含めても『村のなかに町がある』で日本の社会全体を捉えられるかも知れない」という、極端にいえば、そうした、ひとつの構造体なのである。そこでは非農民と農民とが、はっきりとした区画のない空間に共に生活の拠点を構えることが可能であった。この限りにおいて、江戸も大阪も西欧人の「都市」のイメージの範疇に入らなかったとしても不思議ではないことになる。

 江戸や大阪のような大都会でもそうだったから、その他の中・小都市や町では、さらに農村との区別はつきにくいのが一般であった。柳田国男も『時代ト農政』や『都市と農村』などの著作のなかで、しばしば近世における町と村のことを述べているが、村といわれるところにもたくさんの職人や商人が住み、また町といわれるところでは「いささかも農業をやらぬというところは有りませんでした」などと指摘して、一般的に町と村とが混沌とした空間であったことを言おうとするのである。

 網野善彦は近年、能登半島の輪島市の例などをあげて、ここがかつて村であり、村には農業のみでなく工業があり商業があったことを、また「百姓」が必ずしも農民でなかったことを指摘する。柳田が「日本では町と村とは決して類の差ではありません」と言い切っていることと、網野の言おうとするところとはきわめて符節があう。いずれにしても、農業者のいるところと非農業者のいるところという、画然と固定化された二項対立的な表現型として村と町とがあるのではないということを、100 年近くを隔てて二人ともが同じような主張をしているように、私には思われる。

2.「非情または暗愚な都市」と「田園都市」

 産業革命を経過した以降の西欧の都市の一般的な性格について、L.マンフォードはややカリカチュア風に“The insensate industrial town”と称したこともよく知られている。insensateには「非情の」というような意味があるから、わが国では「非情なる産業都市」の訳語が定着しているようだが、この形容詞には別の意味も含まれる。「暗愚な」といった程の意味で、時にはその方がふさわしいと思われることがある。「暗愚なる産業都市」。

 そうした都市の住民は、マンフォードによって「ずる賢い産業人と銀行家、無礼な人々、裕福な投機師、冷酷な工場経営者、野心家、貧乏人……」と手厳しく評されてしまう。近代の西欧都市の住民とはそういう集団で、自然への哲学的畏敬、農業への文明的理解などについての「ひとかけらの顧慮もない」非情というか暗愚な集団のつくる居住空間ということである。さらには、多くの人によって「コークス都市、煤煙の町」などと呼ばれたのも、やはり産業革命以後、同じ時代の西欧都市のことである。

 明治時代も中頃になると、日本でも新たに近代都市計画の試みが行われ始めるが、皮肉なことに、その範は西欧の一部においてすでに「非情な」と、また「暗愚な」といわれ、「煤煙の町」と批判されるような段階に達していた都市像であったことは注目しておかねばならない。当時の殖産興業、工業立国、富国強兵などのスローガンを盲信して進もうとする限り、ビルが無秩序に乱立し、人口が無限定に「繁殖」し、あるいは黒煙をはく煙突がならびたつ風景などが、都市繁栄のシンボルであり、都市の理想像でもあったということになる。

 余談に近いが、多くの都市の「市歌」の中で、たくさんの煙突からモクモクと煙の立ち昇る風景などが賛美されていた。環境の問題などがやかましく論議されるに至って、急いで歌詞が修正され始めたのは、それ程前のことではない。ひとり川崎や四日市だけではないようである。

 近代日本の都市計画では、四囲に石垣こそ築かなかったが、西欧の範にならって、都会は農村と隔離することをもって基本の設計思想としたようである。その方が、都市機能はより効率的であると考えられた。大都会はいうまでもなく、各地の小都市に至るまで、そのように行政指導がされてきて、今日に至るまで基本の考え方は変わっていないといえる。「都市農業」などというものが、無用の長物と考えられ、また実際に抹殺されかかっている現状を、特に大都会の周辺に私たちは見ることができる。

 もっとも、この間に「非情なる都市」「煤煙の町」に対する反省がなかったわけではない。E.ハワードが『明日の田園都市』の中で「イングランドの緑の楽しい大地の上に、聖なる都を築きあげる」ことを提唱したのはすでに19世紀末(1898年)のことだが、その考えがわが国に輸入されて、内務省が同趣の書物を出版するのが1907年であるから、かなりす早い対応だったといえよう。

 ハワードの田園都市の設計は、百年も経過すると、いろいろの人によって修飾された図面が提示されたりするが、本来はかなり単純なプランといえる。ひとつの例として、しばしばあげられるのは、全体で2,400ヘクタールの土地の中央部に大庭園をとりかこんで、行政機関、図書館、劇場、病院などを配置し、6本の放射状の「遊歩道」が庭園の広々とした住宅地へと達し、その外側に機械工場、靴工場、自転車工場などの工場群が並び、さらに町を環状にとりかこんで「円周鉄道」が走るというプランである。以上の町部分の面積が400 ヘクタール、住民は3万2千人と想定する。「円周鉄道」できちんと区切られた外側に2,000ヘクタールの農業地(農地、牧場、果樹園、植林地、農学校、「分貸園」)および2、3の隔離病院などが配置される構想である。

 要は、田園都市とは「健康的な生活と産業のために設計された都市」で、主体はあくまでも町の部分であり、非農業者であった。従って、ハワードの「田園都市」は、「田園と共にある都市」でなく、単に「田園にかこまれた都市」という性格において、高い石垣のかわりに鉄道線路が農村と画然と区別する都市であった。その意味で、「田園都市」でさえもが中世以来の西欧の都市概念の延長上にあったことになる。

3.「デサコタ」ということ

 国連大学主催のシンポジウム「メガシティとその将来」で、T.G.マッギーが、西欧で生まれた都市理念をアジア諸国の都市問題に適用する場合には、理論そのものを慎重に評価し直すべきであることを強調したのは興味深かった。その報告のなかで、彼は「デサコタ」という言葉を使ったが、その辺りの経緯について、要点をすこし紹介しておこう。

  都市と農村(地方)との間に明確な境界線を引く旧来の西欧流のパラダイムは、多くの点で、アジアの都市と農村の関係を考える上で混乱の原因となっている。たとえば、アジアの多くの地域で農村と都市の諸活動の距たりは不明瞭であり、また、都市部と農村部の人口密度に大差のないことなどは、西欧とひどく違うところである。もっとも、アジアといっても現代の日本や台湾の状況がほとんど西欧化に向かい、またタイ国の如く状況の変化がめまぐるしくて、位置づけの難しい国もある。

 (そういう国を除いてだが、)多くのアジアでみられる農業活動と非農業活動の混在する地域を私は「デサコタ」と呼びたい。インドネシア語で町を意味するコタと村を意味するデサとを合成した言葉である。第三世界の現状を表現するために、現地の言葉を使った用語の方が適切かと思うので、西欧語に訳さない方がよいであろう。

 まさに、柳田国男らがすでに述べていた近世日本の町と村とによく似た状況が、デサコタに他ならないことがわかる。マッギーはこれをアジア的特徴といっているが、より正確には、他の作物にくらべて一段と豊産の稲を栽培し、その余剰によって非農業民をもたくさんに包容しうるモンスーン・アジアにおいてこそ、すぐれてデサコタの空間たりうるのであろう。同じアジアといっても、デカン高原や華北などはデサコタのイメージから遠い。それとおそらくは関係して、インドの多くの都市や北京などは城壁で堅固に囲まれて、農村とは画然と別の存在であった。

 マッギーも指摘したように、近代の日本はそうしたデサコタ的状況を都市や農村の計画思想からすっかり除外する方向で進んできて、今日にある。しかし、デサコタ的空間を、私たちはもう一度見直してよいのではないかと思っている。都会は人口の過剰から環境の悪化で困り果て、農村は過疎に深刻に悩む図式が、わが国に定着してしまっているが、もし村の中に町があり、町の中にまた村がある、すなわち農村的な生活と都市的な生活とが共存しうるような空間を「自覚的」につくることができるならば、ひとつの理想的な生活風土の創造ということになるのではないだろうか。実現するとなると非常に難しい課題が多いように思われるが、少し遠い未来を展望する視野に立つならば、今から真剣に考えておいてよい問題であると思う。

4.都市と農村の共生ということ

 都市と農村の共生ということを考える場合に、最も大切なポイントは、どうやら、都市と農村に対するそれぞれの価値観の転換ということにありそうに思われてならない。

 世界史的にみれば産業革命以後、わが国の場合では特に近代以降の100 年間を通じて、都市と工業は、農村と農業とに対して、経済的にも文明的にも明らかに支配の地位に立とうとし、またそれに成功してきているといってよいであろう。都市と工業の優先する社会とは、資本主義と社会主義とをとわず、常に物量生産の効率の極大化を目指して、経済支配、工業技術支配、官僚支配の3つの支配力のネットワークに基づいて推進されてきたと考えられる。

 都市が主導し、農村が支配される関係が恒常化している社会秩序からは、本当の共生−共棲などは生まれる素地がすくない。都市と農村とが対等であり、むしろ「生命」にかかわる場としての農村こそ新しい社会秩序の主人公である自負と矜持が農村側に要求されてよいと思っている。別なところで「現在の都市と農村との共生の事例の多くにみられる農村側の過剰ともいえるサービスについては考え直した方がよいと私は思っている。……あえていえば、農村は都市にへりくだったり媚びたりしないでいたい。この点は、どのような形にしろ正しく共生の関係を長続きさせる上にかなり重要な条件であろう」と述べたのは、こうした意味からでもある。

 都市に付随する生活、文明、環境などへの根本的な疑問、あるいは大都市そのもののカタストロフィーへの予感をさえもかかえながら、まさに20世紀が終わろうとしている。それはまた、農村と農業への期待の新世紀の出発でもある。そうした視野に立ってみると、都市と農村との関係にやがて新しい転換の時代が始まるに違いないと思われる。デサコタ的空間を考え直してみる時代の到来でもある。

(『京都府委託調査報告書』1997より一部転載)