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 参加する。体験する。考える。「カンボジアこどもの家」

スタディーツアー・ボランティア体験参加者よりの声



カンボジアスタディーツアーレポート
期間:2003年3月25日〜3月30日 山田文博さん
画像コーナー (撮影 山田文博)

開かずの病院 / カンボジアからタイに続く荷物の列(国境)
ジーパンなどが運ばれる(国境)
ステンバット小こども / ステンバット小こども
ステンバット小開校式 / ステンバット小開校式
ステンバット小最上級生とともに
運ばれる荷物の列と物乞いするこども(国境)
校舎の裏が地雷未処理のオーニアン小 / 植えた椰子の苗といっしょに
地雷未処理の看板


カンボジア滞在記  山田文博

帰国して2日目。今、定期的におとずれる腹痛に耐えながら、1週間のカンボジアでの体験をふりかえっています。


○1日目(3月25日)
 私は大阪市内で小学校の教師をしています。昨年、栗本さんの話を聞き、そしてこの2月、担任しているこどもたちに、カンボジアのこどもたちの様子を栗本さんから話していただいたのをきっかけにして、今回のカンボジア行きを決めました。
 当初、8人の参加の予定でしたが、19日から始まったイラク戦争の影響で4人の参加となりました。今回は、大阪のいくつかの学校からの支援金で、ステンバット村立小学校が再開されるということになり、その小学校を訪れるというのが主な目的でした。
 関西空港からシンガポール航空でタイのバンコクに到着し、その日の宿泊場所である国境の街アランヤプラテートへバスで向かいました。バンコクは、日本車が走り日本の会社の看板が立ち並び、日本にいるような錯覚をするぐらいでした。近代的な都市や自然が広がる街を通り抜け、4時間かけてアランヤプラテートに到着しました。次の日、国境を越えてカンボジアのポイペットの町に入ることになるのですが、タイとカンボジアの国力の違いをこの後気付かされることになります。このふたつの国の違いは、乱暴な言い方をすれば、「戦争」ではないでしょうか。
 バスの中で、栗本さんといろいろな話をしました。その話題の中心は「慈悲魔」(じひま)―栗本さんの造語―。相手に良かれと思ってやったことでも、それが思いがけず相手を不幸にしてしまうということが世の中にはたくさんあるということ。現に日本のODAがもとで、外国から裁判で訴えられるということがいくつか存在しています。カンボジアでのその慈悲魔にあたる現実は、この後、たくさん目にすることになります。
 慈悲魔にならないようにするためには、自分の考えを相手に押し付けないということが一番大切です。栗本さん曰く「援助も教育も子育ても相手のよさを生かす」ことがなによりも大切なのでしょう。この話を聞いて、4月から私が担任するこどもたちと、カンボジアのこどもたちとが互いに絵や手紙などで末永く交流することができればいいなあと強く思うようになりました。交流を通じて、互いのことを知り、日本のこどもたちもカンボジアのこどもたちからいろいろなことを学び、同じ地球で困っている仲間のために支援することができれるようにしていきたいと・・・・。


○ 2日目(3月26日)
 朝、8時にホテルをチェックアウトし、そこで日本からきた学生と合流しました。(彼女は、大学の研究で世界の様々なNGOを研究しているらしい。)ホテルから国境(ボーダー)までは、乗合タクシーにのってむかいました。タクシーを降りるとすぐにあちこちから、物乞いのこどもたちがやってきて、わからないことばで「金をくれ」といってきます。そのこどもたちをふりきるようにタイの出国手続き、カンボジアへの入国手続き、ビザの申請を済ませました。しかし、私たちが向かう方向とは逆に、カンボジアから大きなリヤカーにたくさんの荷物を載せてタイへ向かう人々の列が延々と続いています。その荷物の中身の多くは、カンボジアへの援助物資です。カンボジアへ送られたはずの物資がなぜかタイへ運ばれている。途中見かけたたくさんのGパンは、日本人のバイヤーがタイで買っていくらしい。世界中からの援助物資が実際には、援助に回されていない現実やそれを買う日本人、荷物を運ぶことで生活をしているカンボジアの人々・・・すべてが自分の目の前で実際に起こっていることでした。
 そして、国境を越えると、巨大なカジノが道の両側に建ち並んでいます。そのカジノ建設に伴って、住む場所を追われた人々が、地雷が残る場所に移りすんでいる村に後日訪れることになります。(その村では2000年に年間200人の人が地雷で命を落としているらしい)その後こどもの家のスタッフの方が運転する車で、こどもの家へと向かいました。途中、足を失い、手を使って自転車をこぎ、荷物を運ぶ人を何人も見かけました。タイでは当たり前だった舗装道路もなく、激しい砂埃の中、ほとんど大きな樹が見えない平原を車は走っていきました。
 こどもの家に到着後、昼食をはさんで、こどもの家が支援しているいくつかの小学校を見学しました。車から降りるたびに、こどもたちが集まってきてくれましたが、私はクメール語の本を片手に、必死に会話をしようとしました。それにしてもカンボジアのこどもたちの瞳の輝きは本当に忘れることはできません。
 いろいろな学校を見学しました。こどもの家が村の人々といっしょに村にある材料で造った茅葺き校舎や他のNGO団体が造ったコンクリートの立派な校舎、トタン屋根の校舎などいろいろありました。ある学校には、3つの団体がそれぞれ別々に同じ敷地内にまるで校舎の立派さを競うように校舎を建てていました。常に、こどもの家には、たくさんの村から学校をつくってほしいという依頼があるらしいのですが、それは立派な建物をつくってほしいということではなく、学校が運営できるように、教師の給料の資金などを含むソフトの面を支援してほしいからです。他のNGOはハード(建物)をつくるだけで、その後の支援がないため、現実として、教師が学校に来ずに授業が成り立たないというものでした。現地の人がつくる茅葺きの建物は、一見粗末なように見えますが、中に入るとトタンやコンクリートの建物に比べてずいぶん涼しく快適なものでした。現地の人ができることは現地の人にまかせるべきだと思いました。現地の人ができることをうばってしまうのは、現地の人の無力感をさそうだけではないかと痛感しました。
 その日の夕方、ある村の方がこどもの家にこられました。こどもが給食のときに鍋を運ぼうとして誤って体に中身をかけてしまい、やけどをおってしまったということでした。すぐに、栗本さんは、わたしたちといっしょにカンボジアにきた小学校の養護教諭の先生を連れてやけどをおったこどもの家に向かいました。実は、その日、いろいろな学校をまわっているときにも、途中あるNGOが建設した立派な建物の病院の前を通りました。しかし、現地の人によると建物はあるが開いているのをほとんど見たことがないといいます。ハードだけで実際に診療してくれる医者はほとんど来ないのが実情です。また決定的なことでは、そのNGOの事務所はカンボジアにはなく、生活に便利なタイ側にあり、月に何度か様子を見にくるだけで、カンボジアでいっしょに生活をしながら支援しているわけでありません。ですから、今回のようにやけどをしてしまったときでも、唯一の病院は開いていなくて、治療方法の知識がない人々にとって、カンボジアでいっしょに生活をしているこどもの家しか頼るところがないようです。(やけどのこどものことですが、それから毎朝・夕方スタッフの人が様子を見に行き、必要な手当てして回復したそうです。)日本の場合はすぐに流水で冷やすことが当たり前ですが、カンボジアでは日本のように蛇口からすぐに流水がでるわけではなく、校庭の端にある井戸まで水を汲みにいかなければならないことややけどのときの対処方法をまだ現地の教師が知らないことがやけどの被害を大きくしていました。


○ 3日目(3月27日)
 初めてのこどもの家での夜が開け、鶏の鳴き声とともに、部屋の片隅から無気味な低い泣き声が聞こえてきました。その姿を見て思わずびっくりしてしまいました。体調が30センチメートルぐらいのトカゲが低い泣き声で天井を貼っているわけですから・・・。
 朝ご飯を食べるとすぐにステンバット村立小学校の開校式に向かいました。この学校は、以前他のNGOが建物を造り、教師を集めて学校をつくったのですが、教師は無給だったため、教師がこなくなり、廃校になってしまっていました。そしてこどもの家に学校再開の要望があり、今回大阪のいくつかの学校の支援金がまとまり、そのお金をもとに学校が再開されることになりました。朝早くからこどもたちが、教室でまっていてくれて私たちは大歓迎を受けました。ステンバット村の村長さんもこられて、あいさつをされましたが、この村には約140世帯760人が住み、その80%の人々がその日の食事に困っている状態で、村にはほとんど仕事がなく、樹を切ったり炭をつくったり、国境(ボーダー)で出稼ぎをしている現状だそうでした。何もないこの村では、学校がこれから中心となっていくだろうと村の人々の学校に対する並々ならぬ期待を込めて話しておられました。その後、大阪のいろいろな学校から預かってきたカバンやノート・消しゴムなどをこどもたちひとりひとりに手渡しました。この学校がこれからも永遠に続くように、大阪の学校関係者でがんばっていかなければならないという責任を強く感じさせられました。その後、私がこの春まで担任していたクラスのこどもたちに描いてもらっていた絵を渡して、みんなに見てもらいました。その後、現地の先生方と交流してこの学校を後にしました。
 昼からは、月に一回、こどもの家が支援している学校の教師がこどもの家に集まって職員会議が開かれました。(毎週木曜日は、清掃の日ということで授業はない)この会議のときに、それぞれの先生に給料が手渡されるそうです。会議の最初に、この日開校式を迎えたステンバット村立小学校の教師がみなさんに紹介されていました。ところで、この会議は2時ごろから始まったのですが、栗本さんに何時から始まるのかをきいたところ「昼から」ということだけでした。すごいときには、「○日に会議」ということもあるそうです。時刻まできっちり指定して集まることはないそうです。それでも、2時過ぎに来た数人は、周りの人から少し遅いなあという目で見られていました。
 その後、他の学校を車で見学に行きました。特に印象深かったのは、オーニアン村の小学校でした。2日目の朝通った国境にあったタイ資本の巨大なカジノのために住む場所を奪われた人たちが与えられた場所は、まだ地雷が残されたこの村だったのです。2000年には、年間200人の人たちが地雷のために命を落としています。この小学校の建物もすぐ裏の草むらは、まだ地雷撤去が終わっていない場所で、こどもたちがそこへ行かないように深く溝がほられていました。こどもたちが過ごす数m先に地雷が眠っているそんな現実に驚いてしまいました。また、ある学校では、校庭でこどもたちが、ぼろぼろのサッカーボールで必死にサッカーで遊んでいました。でこぼこのグランドでぼろぼろのボールを裸足で追いかけているこどもたちをみると、心を打たれるものがありました。
その日の夕食後、国境(ボーダー)近くまで、車を走らせて夜の街にいきました。国境が近くなると、昼間はわからなかったのですが、道の両側のあちこちに「売春宿」がありました。また、途中道に警察官がたって検問らしきことをしていました。警察(公務員)の給料だけでは生活することができないので、夜通行する車からお金を取っているらしい。私たちがのっている車は、NGOのナンバープレートがついておりお金は徴収されずにすんでいます。カンボジアはいろいろな外国からの援助で成り立っている国なので、他の国の特にNGOには、こんなことはしないそうです。
 明日は、栗本さんが朝から、日本に行く予定があり、今日がカンボジアでいっしょに過ごす最後の日ということで、時間を見つけては、いろいろなことを話しました。特に、日本で使われている「ボランティア」ということばは、何かをしてあげるという意味がふくまれていて、「してあげるという思いの活動はだめだ」と考えている栗本さんにとって、「ボランティア活動」といわれると何か悪いことをしているように感じてしまうそうです。なにか、他に変わることばがないだろうか?など、援助のあり方についてさまざまな意見を交わしました。


○ 4日目(3月28日)
 この日は、私といっしょに大阪から来られた方々は、シェムリアップのアンコールワットの見学にいかれました。私も当初の予定ではいっしょに行く予定でしたが、このまま、こどもの家に残らせてもらいました。
 早速、昨日開校式があったステンバット村立小学校にいきました。午前中は、校庭を整備しました。樹の切り株などが残っていて、危ないところは、おのやくわで取り除き、草などを取り除いていました。休み時間になるとこどもたちや先生も出てきて「ぼくらにもやらせて」とくわを私たちからうばいとって楽しそうに作業をしていました。
 昨日の開校式で村長さんが話していたように、この村では畑などはほとんどみられず、こどもたちは植物を自ら育てるということを体験したことがないように感じたので、昼からは、学校の敷地の隅に、畑(日本でいう学習園)をつくろうと思い、耕しだしました。しかし、このあたり特有の粘土質ばかりで、作物を育てるには土が悪すぎるということがわかりました。ところで、スタッフの話によると、カンボジアでは、古くからこどもが生まれると家の前に椰子を植えるそうです。その椰子がこどもの成長とともに、大きくなり、こどもが成人したときには、その椰子で一生生活に困らないらしいという言い伝えがあるそうです。また、椰子はやせた土地でも十分に育つことができるということなので、明日、椰子の苗を買ってきて校庭に植えることにしました。
 この暑さとこのやせた土地でできる作物にはどんなものがあるのか、日本にもどったらしっかり勉強してこようと思いました。スタッフからは、食べられるものもいいのだが、きれいな花が咲くものでもいいのではないかというアドバイスをもらいました。そのスタッフが以前、いわゆるゴミを集めて、その中から、再び使えそうなものだけを取り出して売っている人々がいる村に出かけたことがあるそうです。その村は、「ゴミの村」と呼ばれているそうですが、そこでバルーンアート(細長い風船でいろいろなものをつくる)をして、こどもたちがほしいものをつくってあげたそうですが、どのこどもも動物などよりも、花を作ってほしいと注文してきたそうです。ゴミの村に住むこどもたちが花などの美しいものにあこがれていることを知ったそうです。
 ところで、この日、畑をつくろうと耕しているときに、遠くで「バーン」という爆弾が破裂する音が2回ひびきました。実は後から知った話ですが、この学校から、数十m離れたところは、タイとの国境になっていて、地雷処理団体が地雷をその場所で爆破処理をしていたそうです。そういえば、朝から何度も、銃をもった軍人がこのあたりを歩いているのをよく見かけました。国境警備隊の軍人だそうです。
 夕方は、スタッフにポイペットの国境近くにある市場に連れていってもらいました。そこの本屋さんに入り、こどもたちが使っている教科書を買いました。1冊の教科書が30バーツ。(日本円で約90円)この地域の人にとってこの値段は、決して安い値段ではなくて、高価なものであることがわかりました。そういえば、今回訪れた学校のこどもたちのほとんどは、教科書をもっていませんでした。


○ 5日目(3月29日)
 いつものように朝6時ごろ起きだして洗面をすませていると、こどもの家に生活している孤児の数人がもうカバンをもって出かけようとしています。聞いてみると、学校は朝7時ぐらいから始まっているそうです。日の出とともに朝起きて、学校に行くというのがこの地域のこどもたちの生活リズムなんだそうです。
 この日は、椰子の苗を植えるべく、先ず、カンボジア人の方といっしょに学校にいきました。そして、椰子をどこへどのくらいの間隔で植えたらいいのか、穴を掘る深さや大きさを教えてもらい、早速穴を掘り出しました。そうすると、また休み時間になるとすぐに先生やこどもたちがやってきて、自分たちにもほらせろということでどんどんと穴を掘っていきました。そして、椰子の苗が到着すると、みんなでかわるがわる土をかぶせ、井戸から汲んできた水をたっぷりとまきました。私たちは日本に帰ることになるので、これからの水遣りをお願いしようと思っていましたが、すっかり、自分たちの椰子だという思いを持ってもらえたようでした。
昼からは、こどもたちとにドッジボールを教えていっしょに遊びました。30度をこえる常夏のカンボジアの炎天下で、約1時間もドッジボールで遊んでしまいました。こどもたちも、下手な私のクメール語の説明でもよく理解してくれました。授業が終わっても、サッカーや馬とびなどもいっしょにやりながら、楽しく交流することができました。
 この日は、カンボジアで過ごす最後の夜になりました。私は、小学1年生の国語の教科書に書いてあることをお父さん(CCHOMEの代表でカンボジアの人)にいろいろと教えてもらおうとしました。しかし、カンボジアのことば(クメール語)がとても難しいということがよくわかりました。特に発音の難しさにはお手上げでとても生半可な気持ちでは覚えられないことがよくわかりました。
その後、カンボジア人のスタッフの方々が、ビールを買ってきてくださり、夜中2時ごろまで、お酒を飲みながら、いろいろなことを話していました。(どんなことを話していたかは覚えていません)


○ 6日目(3月30日)
 いよいよカンボジアでの最終日。今日は日曜日なので朝から学校は休み。でも、もう一度だけステンバット村立小学校にいくと先生方がいらっしゃいました。話を聞いてみると、遠くの村からきているので、学校の近くに住んでいるそうでした。私たちが今日日本に帰ることと、これから子どもたち同士で絵や手紙などを通じて交流を末永くしていきたいことを伝えて分かれました。そして、最後にポイペットの市場周辺をスタッフの人に案内してもらい土産物などを買いました。
 昼食後、記念写真などをとり、いよいよカンボジアを後にしました。
ポイペットの国境近くにまで、カンボジア人のスタッフに車で送ってもらい、カンボジア出国、タイ入国を済ませ、国境を越えました。初めてこの国境を越えた日と同じように、多くの荷物を運ぶ人々が交錯し、物乞いをするこどもたちをあちこちで見ました。そして、バンコクまでのバスに乗ると、カンボジアとは別世界のタイの街をバスは走っていきました。同じ陸続きの国でありながら、タイとカンボジアでこんなに人々の暮らしぶりがちがうことへの驚きがまたよみがえってきました。やはり、戦争がこのふたつの国の運命をこんなにも大きく変えてしまったのでしょう。
 タイのように電気が通って物があふれているから、幸せであるとか、カンボジアのように、電気が使えずに物が足りなく貧しいから幸せではないとは、いうことはできません。しかし、数日間しか滞在しなかったカンボジアには私たちが普段なくしかけていたものが確かにあったように思いました。
 そう思いながら、バンコクから、物があふれていると思われる日本(大阪)にもどってきました。
カンボジアで撮った写真を見るにつけ、学校出会ったこどもたちの輝く瞳はやはりいつまでもひきつけられてしまいます。