カンボジアスタディーツアーレポート
期間:2003年8月20日〜8月26日 山田文博さん
実は、今私自身、少し落ち込んでいます。といいますのも、帰国した日の夕方、こどもを保育園に迎えにいくために、自家用車を車庫から出そうとしたときに、普段はこすったことのない場所で、こすってしまったからです。ショックでしたが、カンボジアでの1週間の疲れがかなり残っていたのだと思いました。しかし、考え方をかえると、今回のカンボジアでの1週間は、充実した日々を過ごすことができたと思っています。今回は、春に続いて2度目のカンボジア訪問ということで、事前にカンボジアで様々なことに取り組むために、準備をして参加しました。そして、現地でスタッフの方の意見を聞き支援をしてもらったり、いっしょにツアーに参加した方々にお手伝いをしていただいたりしました。おかげで、毎日、いろいろなことを学び、感動をすることができ、幸せな毎日を過ごすことができました。今回縁あって、いっしょにカンボジアにいったツアーの仲間を含めて、現地の多くのスタッフのおかげだと思っています。
しかし、私は今回のカンボジアでの体験で、活動が終わるのではなく、この体験を私がかかわるこどもたちにどのように伝えていくかが、一番大切なことだと思っています。
私は、大阪市内で小学校の教師をしています。昨年、教職員の研修の場で、栗本さんの講演を聞く機会がありました。私がかかわっている6年生のこどもたちにもぜひその話を聞かせたいと思い、栗本さんに本校での講演をお願いしました。こどもたちは、栗本さんの講演を聞き、自分たちがカンボジアのこどもたちにできることをしたいと話し合い、卒業式を控えた3月に街頭募金活動を行いました。そして、私自身も、自分にできることを考え、卒業式と終業式を終えた翌日から、1週間大阪市内の教員の方とカンボジアに行きました。そして、今回が2度目の訪問となったわけです。
○1日目(8月20日)
いわゆる夏休みということもあり、関西空港は朝早くから多くの旅行客であふれていました。今回は、6人の学生さんと私を含めて2人の社会人の合計8人でのツアーとなりました。もちろん、他の方と面識はありませんでした。しかし、なぜか待ち合わせ場所にいた大勢の旅行客の中から、ツアーに参加する学生さんを一目で見つけることができました。きっと学生さんから私と同じ雰囲気を感じることができたからだと思います。この後の1週間、共に多くの体験をすることになるのですが、不思議なことに以前から知り合っていた仲間のように感じました。
前回と同様に、関西空港からシンガポール航空でタイのバンコクに到着し、その日の宿泊場所である国境の街アランヤプラテートへバスで向かいました。
その日の宿泊先で同部屋になった大学生とは、いろいろな話をしました。彼は、NGOについて研究をしているということで、教授より栗本さんを紹介されて、今回ツアーに参加したそうです。彼との話の中で、思わず考えさせられたことは、NGOはNGOが存在しなくてもよい世界を求めているのではないかということや、なぜ日本人がカンボジアにわざわざ行かなくてはいけないのかと母から聞かれたということでした。(ツアーが終わった今、彼はどんな答えを見つけたのでしょう。)
○ 2日目(8月21日)
朝、8時に宿泊先を出発し、国境(ボーダー)に向かいました。タイの出国手続き、ビザの申請、カンボジアへの入国手続きを済ませました。前回同様、国境付近は、いろいろな思いを持った人々でごった返し、その人々を見下ろすかのように巨大なカジノがいくつもそびえていました。4ヶ月前には、建設中だったカジノも新たにできあがり、カジノ建設のラッシュが続いています。国境からこどもの家までは、トラックの荷台に乗って向かいました。カンボジアはちょうど雨季ということで、雨が降った後の道の状態はかなり悪く、スキーのモーグル(こぶ)を連想させる状態でした。
こどもの家に到着後、オリエンテーションを済ませ、昼食をはさんで、こどもの家が支援しているいくつかの小学校を見学しました。(この時期のカンボジアの公立小学校は、一般的に雨季のための長期休業となっています。しかし、こどもの家が支援している学校は、この間も先生方の給料を支援し、補習授業をおこなっています。)ただ、この日(木曜日)は、奉仕活動の日ということで、こどもの家が支援する学校でも、補習授業は行われずに、休校状態で、こどもたちとはほとんど会うことはできませんでした。また、途中で、雨が降り出してきたため、急きょこどもの家にもどることになりました。雨季には、雨が大量に降り、道がひどくぬかるんでしまい、車が進めなくなるからです。
結局、雨のために訪れることができた学校は2校だけでしたが、前回に比べると変わったことがありました。一つは、それぞれの学校で、こどもの家がトイレをつくっていることでした。また、ユニセフから、こどもたちに教科書が配られている学校もありました。前回は、開いていなかった病院も開いていました。(デング熱が流行しており、その診察のためということでした。しかし、その病院を建てたNGOは、この11月には、撤退をするということで、こどもの家は、その後の支援を求められていました。)また、こどもの家の近くにあるツールボンロー小学校には、他のNGOによって、正門から建物まで校庭の中央を縦断するように、きれいな花が植えられていました。春に訪れたときは、こどもたちや村の若者たちが、いつもその校庭でサッカーをしていたのを思い出すと、その花は、こどもたちの思いを聞いて植えられたものなのか、疑問に思いました。校庭の両側に木でつくられた簡単なサッカーゴールは、もう使われることなく、無用のものとなっていました。
いったん、こどもの家に戻った後、あらためて私は、スタッフといっしょに、ステンバット小学校へ向かいました。この学校は、大阪の人たちで支援を始めた学校で、前回のカンボジア訪問のときに、開校式に出席させてもらいました。4月以降は、私が日本で担任している6年生のこどもたちの絵日記を送るなど交流を始めていました。今回は、この学校のこどもたちといろいろな交流をしたいと考えており、早速明日から、訪問しようと考えておりました。ところが、この日の雨で、道がどろどろになってしまったので、学校まで車でいくことができるのかを、確認しにいきました。しかし、あいつぐ雨で道はぬかるみ、大きなトラックなどが通ったところは、ひどく道がえぐられて、まさにオフロードレースを思わせるような状態でした。途中まで進みましたが、もう先へは進めない状態となり、こどもの家に引き返すことになりました。ところが、ある道に差し掛かると、道の真ん中に、数人のこどもたちが立ちはだかっています。よく見ると、道には大きな溝が深くほってあり、そのままでは先に進めません。こどもたちは、「板をおいてやるから5バーツよこせ」といっていました。こどもたちに板をおいてもらって前に進もうとすると、それでも、溝にはまるようになっていました。そこで「今度は、おしてやるからもう5バーツよこせ」というわけです。結局、この道を前に進むことをあきらめ、バックして違う道から帰りましたが、カンボジアのこどもたちのすさまじいエネルギーをみた思いでした。(結局次の日は道が比較的に整備されているところまでは車で送ってもらい、そこから歩いて学校までいくことにしました。)
なんとかこどもの家にもどり、明日以降、ステンバット小学校などで、取り組みたいことをスタッフの方に話し、意見を聞かせてもらいました。
まず、日本からもってきたひまわりの種をこどもたちといっしょに、うえるということでした。前回訪問したとき、この村の周辺には、畑などはほとんど見られませんでした。こどもたちに、ぜひ植物を育てる喜びを体験してもらおうと感じたわけです。しかし、校庭の土の質があまりよくないので、前回は、やせた土地でも育つヤシの苗をみんなで植樹しました。今回は、一人一人が簡単に栽培でき、なおかつやせた土地でも育てることができるひまわりにしたのです。種まきは、カンボジアの滞在最終日に、こどもたちに容器を持ってきてもらって種を植えることにしました。
また、音楽の授業が行われていないことを聞いていたので、日本から持ってきたリコーダー50個、特製の楽譜をつかって、こどもたちに楽しく演奏してもらいたいと思いました。
さらに、日本で担任しているこどもたちの自己紹介カードをもってきたので、スタッフの方に、クメール語に翻訳してもらうことになりました。
もうひとつ、今回取り組んでみたかったことの一つに、地雷についての資料を集め、日本のこどもたちに、地雷について知ってもらう教材をつくろうと考えていました。そこで、実際に地雷の被害にあった人々に話を聞かせてもらおうと考えていました。こどもの家のカンボジア人スタッフの中には、ポルポト派の軍人として、実際に地雷を埋めていた人や、内戦後、地雷撤去の仕事にかかわっていた人や、地雷を踏んで、けがを負ってしまった人などもおりました。また、こどもの家が支援している学校の中にも、地雷の被害を受けているこどももいます。しかし、そう人からの聞き取りをすることは、スタッフに反対されました。誰でも、触れたくない過去があります。人を殺す道具を埋めたり、事故にあったりしたことは、人には話したくないことで、ましてや、突然表れた日本人にそんな悲しくつらい過去をどうして話してくれるだろうかということでした。後日、栗本さんが、こどもの家に帰ってきたときに、同じことを聞きましたが、やはり、栗本さんも同じ考えでした。ただ一つだけ話を聞いても差し支えない方法があるということでした。それは、話を聞くだけではなく、生涯かけてその人を支援していくということでした。そこまでの覚悟があるかということでした。私自身、相手の気持ちを考えることなく、自分の都合だけで考えていたことに恥ずかしさを覚えました。結局、5日目の日曜日に、シェムリアップの地雷博物館に見学にいくことにしました。
その日の夜、早速スタッフが、日本から持ってきた自己紹介カードをクメール語に訳してくださりました。また、日本のこどもたちにクメール語を教えるためのヒントも教えてもらいました。次の日以降、ステンバット小学校と交流をするためにも、現地の先生と私ができる限り意思の疎通を行うことが大切だという意見をもらいました。まさに、その通りです。私は本校の近くにある朝鮮学校とも3年ほど交流をしていますが、やはり、交流をする前に、朝鮮学校の先生とも十分な打ち合わせをしています。(拉致事件等が問題になったときも、先生同士の信頼関係がありましたので、迷うことなく交流を続けていました。)カンボジアの先生とまだ未修得のクメール語でどれくらい意思の疎通ができるか、これが今回の一番大切なことだと感じました。
○ 3日目(8月22日)
この日は、いよいよステンバット小学校へ行く日です。朝食の後、二人のスタッフといっしょに、市場で昼ごはん用のパンを買って、学校へ向かいました。道の状態が悪いので、車でいける所まで乗せていってもらい、予定通り、ひとりのスタッフといっしょに荷物を持って歩きました。最初サンダルを履いて歩いていったのですが、逆に泥がサンダルについて歩けなくなるので、スタッフのすすめられるまま、サンダルをぬいで裸足になり、約40分かけてステンバット小学校に行きました。その泥道を裸足で歩く感触の心地よいこと、病み付きになってしまいそうでした。
やっとのことで、小学校に到着すると、何人かのこどもたちが外で遊んでおり、気持ちよく出迎えてくれました。午前中は、2年生と3年生が補習授業を受けていました。ところが、2年生の担当の先生が、所用があって学校には来ておらず、こどもたちは教室で何もすることがなく遊んでいる状態でしたので、リコーダーを使って音楽の授業をしてもよいということになりました。早速スタッフの方に通訳をしてもらい、特製の楽譜を使って、リコーダーの練習をしました。
こどもの家が支援している学校では、日本人のボランティアなどが楽器をもって演奏するのを聞く機会は、よくあることなのですが、子どもたち自身が、楽器を演奏することは、ほとんどありません。初めてリコーダーを手にした子どもたちは、目をきらきらさせていました。私は、カンボジアに日本のドレミにあたる階名があるのかどうかわからなかったので、ドレミ・・・をそれぞれ、モイ(1)、ピー(2)、バイ(3)・・・の音とし、その音階の楽譜を作ってもっていきました。その日は、シとラにあたる音だけを使った曲を演奏しました。カンボジアに響いたリコーダーの音をはじめて聞いたとき、私の心はふるえました。あっという間に約1時間が過ぎ、こどもたちとの音楽の授業は終わりました。
給食後、2・3年生の子どもは、下校し、昼からは、1・4年生の授業が始まりました。私は授業がない2・3年生の先生といろいろな話をしました。最初は、スタッフの人が通訳してくださるものだと思い込んでいましたが、スタッフからは、紙と筆記用具、カンボジア語の辞書を渡され、これでコミュニケーションをとりなさいということでした。
一字一句、辞書で調べながら、カンボジア人の先生に話していきました。まず、私が日本で担任している学校のこどもとステンバット小学校のこどもとが、手紙などのやりとりを通じて交流をしていきたいということを話しました。日本からもってきたこどもたちの自己紹介カードも渡しました。
また、日本で音楽の学習というのがあり、歌ったり、演奏したりすることによって、心が豊かになるということ、こどもたちとの学習の中でリコーダーを使ってもらえればということなどを話しました。すると、ひとりの先生が、今度私がカンボジアにきたときには、リコーダーで演奏して迎えてくださるという話をしてくださいました。私は、そのことを聞き、感激してしまいました。
次に、私にカンボジアの歌を教えてほしいということをお願いしました。その歌を覚えて日本のこどもたちにカンボジアの歌として伝えたいと思ったのです。
最後に、ひまわりの種をこどもたちといっしょに植えてみたいと話しました。こどもたちに家などから、空き容器をもってきてもらうことになりました。
その後、先生方にもいっしょにリコーダーを体験してもらいました。先生方も今日早速家に持って帰って練習してくると話されていました。話が終わる頃、4年生の教室で、音楽の授業をしてもいいということになり、今度はスタッフ抜きで、私とカンボジア人の先生だけで、こどもたちとリコーダーを使って音楽の授業をしました。私の片言のクメール語を聞いて、先生がこどもたちに指導してくださり、こどもたちといっしょに楽しく演奏することができました。
後で、スタッフから聞いたことですが、カンボジア人の先生から「どうやって学校まで来たんだ?」と聞かれて、「歩いてきました」とこたえると、先生もたいへん感激して喜んでくださったことや、私が必死に辞書などを使って思いを伝えようとしたことで、カンボジア人の先生にも誠意が伝わっているということを教えてもらいました。あらためて、人と人とのつながりの大切さを学びました。
私はこの交流が今回だけのイベントに終わることのないようにすること、私が帰国した後も、リコーダーを使ってもらえるようにすることの大切さを感じていました。今回カンボジアに滞在する5日間のうち、運悪く2日間も学校が休校でした。私が学校で直接かかわることのできる日も、3日間に限られてしまいます。しかし、今回いっしょにツアーに参加された女性の方が、日本で音楽活動をされていることと、私が帰国した後も約2週間カンボジアに滞在されということを聞いており、その方が、私の後をついでくださることになりました。翌日は、その方もいっしょに学校にいってくださり、リコーダーでアンサンブルをしていただけることになりました。カンボジアのこどもたちにすてきな演奏を聞いてもらおうと、晩ご飯の後、いっしょにアンサンブルの練習を夜遅くまで繰り返しました。
その日の夜は、カメムシ科の黒い虫が異状なほど集まってきたので、スタッフが、ほうきで集めるとバケツにいっぱいになりました。それが粒の大きなキャビアのようで、また、匂いも強れつで、その日の寝苦しかったことと少しは関係していたかも知れません。
○ 4日目(8月23日)
この日は、道の状態もまずまずで、車で直接学校までいくことができそうだったため、他のツアー参加者の方々もいっしょに、ステンバット小学校へいきました。昨日打ち合わせと練習をしたように、女性のツアー参加者の方といっしょに、午前は3年生といっしょに、午後は4年生といっしょに、リコーダーを使って音楽の授業をしました。最初に、二人でリコーダーのアンサンブルをしました。簡単なメロディの曲から、リズムに変化のある曲など、世界の各地の民謡とよばれるものを中心に演奏しました。その後、こどもたちと音の出し方を練習して、簡単な曲をみんなで演奏しました。午後からの4年生は昨日に続いて2回目の授業でしたので、さらに新しい音にも挑戦して、演奏できる曲も増えました。授業の最後に、また二人で「サリマライズ」(オランダ民謡)・「アニーローリー」を演奏しました。前日に、急きょ結成した二人組みのアンサンブルでしたが、カンボジアのこどもたちに聴いてもらおうと、二人で息も合わせ、心を込めて演奏することができ、演奏中に涙が出そうになりました。
その後は、いっしょにアンサンブルをした方といっしょに、前日のように、先生方とたどたどしくもクメール語で、話をしました。
この日の夕方、こどもの家に、久しぶりに栗本さんが帰ってきました。ツアー参加者の中には、まだ栗本さんと会ったことがない人もいて、みんなでいろいろな話をしました。それは、晩ご飯の後も続きました。全員が、自分の名前とこどもの家に来るようになったきっかけなどを話しました。栗本さんも、ポイペットでこどもの家をつくった経緯や今後のこどもの家の活動の見通しなどを話されました。こどもによる人身売買や売春など、人を人として扱わないことをやめさせたいという強い思いと、そのために教育が大切なんだということを語っていました。そして、こどもたちが学校で学んだ後の生活を、見通しをもつことができるように、いろいろな支援を考えているようです。その後も、いろいろなことを夜遅くまで話しました。あまりにたくさんのことについて話したので、覚えていないことも多々あります。
おもしろいこともありました。いっしょに話をしていたカンボジア人のスタッフが、ツアーで参加している日本人一人一人が、どこの国の人に見えるかということでした。中国人、ラオス人、ベトナム人、フランス人などいろいろありましたが、私は、カンボジア人といわれました。そのときは、そんなに私は色が黒いのかなとびっくりしてしまいましたが、後から考えると、カンボジア人にカンボジア人みたいだといわれることはうれしいことだなあって思っています。
実はこの日、栗本さんが来られるなり、私にうれしいことを教えてくださいました。それは、私が現在、担任しているこどもの保護者が、こどもの家のホームページを見て、栗本さんにメールを送ってこられたということでした。
「こどもの担任の山田先生が、今、カンボジアにいっています。・・・・・・・・」
その話を聞いたときのうれしさは、なんとも表現することができませんでした。
○ 5日目(8月24日)
この日は、学校は日曜日のため休日ということもあり、シェムリアップのア・キラ地雷博物館にいくことにしました。たまたまスタッフの方が、シェムリアップまで用事がるということで、車でおくってくださることになりました。ただポイペットからシェムリアップまで日帰りでいった日本人はあまり聞いたことがないそうです。シェムリアップは、世界遺産のアンコールワットがあるところでも有名で、普通はそこを見学するために、最低1泊はして帰るということでした。しかし、翌日はカンボジアでの最終日、私はステンバット小学校で、こどもたちといっしょにひまわりの種を植えることにしていたので、どうしても、日帰りということになりました。
朝食をとってから、すぐにスタッフの運転でシェムリアップに向かいました。昼前にこどもの家が定宿にしているチェンラーゲストハウスに着くまでのおよそ4時間、いろいろなことについて話しました。
一つは、日本人がカンボジアの国について誤った認識をしていることについてです。
こどもの家があるポイペットの街は、タイとの国境で、難民が多く、人身売買や地雷の問題、エイズの問題、学校不足の問題などいろいろな問題を抱えている街です。(だからこの街にこどもの家が必要なのですが)一方、今やカンボジア全体はポイペットのような街ばかりではなく、内戦終了後、カンボジア各地が復興し、豊かな自然に囲まれて、農業も行われ、人々が平和に暮らしている地域がたくさんあります。ポイペットのような街はもうカンボジアの一部でしかないのです。しかし、日本のメディアは、ポイペットの街の様子がまるで、カンボジア全体であるかのように報道します。カンボジアには、日本が失ってしまった豊かな自然と人々のやさしさがあふれるすてきな国なんだということを、多くの人に知ってもらいたいと話していました。
また、日本から買春を目的にカンボジアを訪れる観光客が多く、そのスタッフは、知り合いのカンボジア人から、その現実を多く聞かされているようです。いったい、日本人は、カンボジアの国を、カンボジアの人々をどう思っているのでしょうか。同じ地球の同じアジアの仲間なんだという認識があるのだろうかという怒りを覚えます。きっとこれから向かうシェムリアップで出会う日本人の中にも、そういうことのためにカンボジアに来ている人もいるんだろうと思うと、日本人であることが恥ずかしく、また悲しくなってきました。
もう一つは、昨晩、いろいろと話し合ったこれからのこどもの家のことについてです。
これからは、支援する個人や団体がそれぞれの学校のオーナーとして、援助をしていくことになります。しかし、支援者がただ金銭的な援助をするだけでいいのかということです。支援者も、直接村の人々と先生とこどもたちともっと対話をしていく必要があるのではないかということです。日本にいるときには想像できなかったのですが、現在のカンボジアは、急激に携帯電話が普及し始めています。カンボジアに直接いくことはできなくても、その意思があれば、一つの例として、これからは通信手段を利用して、対話をすることができるはずです。「援助と対話」、これからはこどもの家がそれらをすべて引き受けるのではなくて、それぞれの支援者・団体が、責任をもってそれを行っていく段階にきているのかもしれません。そういうことを考えると、支援を始めた私たちは、これからも、カンボジアの人々といっそう対話を進めていかなくてはならないと思いました。
途中、国道の近くの集落で、お祭りのような、楽しそうな歌声や笑い声が聞こえてきました。車を止めて、様子を見ていると、村の人々は手招きをして、私たちを呼んでいるようでした。呼ばれているのに、いかないのも失礼なので、集落にいってみると、私たちは大歓迎を受けました。村の人々は優しい瞳で、声をかけてくれるのです。いろいろ話を聞いてみると、実は村の中で、お葬式をしていることがわかりました。亡くなった方が寂しくならないように、村の人々みんなで、楽しく盛り上げているようでした。私もそんな人々に囲まれてとても幸せな気持ちになりました。私たちは、時間にゆとりがあれば、もう少しいっしょにいたかったのですが、後ろ髪を引かれる思いで、また車を走らせました。
いろいろな話をしながら、車の窓から見える景色に思わず感動し、車を止めてもらって、写真にその風景をおさめるということがたびたびありました。車から降りるたびに、自分の体が吹いてくる風やまわりの自然にとけ出してしまいそうな感覚になりました。なんとも心地よい気持ちになり、私は、カンボジアの自然や人々がとても好きになりました。シェムリアップに着く前に、もうすでに満足してしまっている自分がいました。
チェンラーゲストハウスについて、昼食後(久しぶりのカツ丼を食べました)、バイクタクシーにのって、ア・キラ地雷博物館にいきました。しかし、運転手は、道がよくわからなくて迷っていたので、本当に今日のうちに着くのかと心配になるぐらいでした。この博物館のことは、日本にいるときにホームページを見ていたので、大まかな内容については、ある程度知っていました。しかし、中に入ってみると、人を殺す地雷が、あまりに無造作に、多数置いてあることに驚きをもちました。また、人を殺すために、多くの種類の地雷を開発していることの恐ろしさを感じました。ここまでして、人の殺し方を考えないといけないのかと、戦争の恐ろしさ・戦争が人を変えてしまう恐ろしさをあらためて感じました。日本に帰った今でも、購入したパンフレットや写真集などをときおり、読み返しています。どうやってこの状況をこどもたちに伝えていこうかと日々考える毎日です。
シェムリアップからポイペットまでは、乗り合いタクシーに乗って帰りました。途中、シソポンまでは、運転手をいれて、6人が乗っていましたが、シソポンからは、乗客が入れ替わり、大人6人にこども4人が乗車するという、日本では考えられない乗車人数で帰りました。そんな状況でも、窓から見える風景を目にしっかり焼き付けながら帰りました。
その日の夜は、カンボジアでの最後の夜。遅くまでいろいろな話をしていました。
○ 6日目(8月25日)
いよいよカンボジアでの最終日。雨がふらないことを祈りました。雨が降ると、こどもたちの中には、国境(ボーダー)に出かけ、傘を差す仕事をするこどもがいるそうです。タイ人は、雨に濡れることをひどくいやがるらしいのです。他にも雨が降ると、晴れた日ではできない仕事があるそうです。数日前に出会った、道に溝をほってまちかまえるなどの雨の日特有の稼ぎ方があるようです。
祈りが通じたのか、朝から天候にも恵まれ、朝食後すぐに、ステンバット小学校へと向かいました。しかし、やはり途中で車をぬかるみにはまり、前と同じように途中からは歩いてステンバット小学校へ向かいました。到着したときは、授業中でしたが、授業が終わると、早速こどもたちが、校庭にあらわれ、先生に了解をもらってから、いっしょにひまわりの種を植えることにしました。こどもたちが、もって来た空き容器に、校庭の土を入れ、ひとりに3粒ずつ種を渡しました。そして、土の中に埋めていきました。1週間後に、芽が出て、そして校庭に植え替えられたひまわりが大きくなってくれることを楽しみにしています。
その後、先生方に私が今日、日本に帰ることを伝え、最後に以前お願いしていたカンボジアの歌を教えてもらいました。「アラピヤー」という題名で、歌詞の意味は、わからなかったのですが、心が弾むようなリズムとメロディの歌でした。すると、村の人が、民族楽器を持ってきてくださり、楽器で伴奏しながらいっしょに歌を歌いました。そうすると、今度は、授業をしていた2年生・3年生のこどもたちも中に入ってきて、みんなで、大合唱をしました。カンボジアでの最終日に大きなプレゼントをもらった気がしました。(今日もいっしょに学校にきてくださった女性のツアー参加者の方も民族音楽にたいへん興味をもっておられたので、この後も、この学校にきてこの歌も教えてもらうということでした。その方には、いずれ本校に来てもらい、「アラピヤー」の歌をこどもたちに教えてもらおうと思っています。)
感激の中、先生方やこどもたちとお別れをして、日本に帰るべく、こどもの家に向かいました。帰りも途中までは、サンダルを脱いで歩いて帰りました。
昼食後、記念写真などをとり、いよいよカンボジアを後にしました。
ポイペットの国境近くにまで、カンボジア人のスタッフに車で送ってもらい、カンボジア出国、タイ入国を済ませ、カンボジアを後にしました。
今回のカンボジアツアーでは、毎日のように、新しい発見や、感動がありました。それは、今回のツアーでも多くの人々とのふれ合いがあったからです。
ステンバット小学校のこどもたちや先生、村の人々。こどもの家の日本人とカンボジア人のスタッフ。そして、今回縁があって、関西空港からいっしょにツアーに参加した仲間たち。この多くの人たちとのつながりをこれからも大切にしていきながら、私がかかわるこどもたちに、この感動を伝え、カンボジアのこどもたちと同じ地球の仲間・ともだちとして交流を深めることができるよう、取り組んでいきます。