期間:2004年3月24日〜3月29日 山田文博さん(大阪市)
♪ さくら さくら 今、咲き誇る
刹那に散りゆく運命と知って
さらば友よ 旅立ちの刻 変わらないその想いを 今
カンボジアに出発する5日前の3月19日。私は1年間ともに学んだこどもたちと涙の卒業式の瞬間を過ごしていた。
このこどもたちとは、「総合的な学習」で、1年間「カンボジア」について学習を進めてきた。昨年の5月、「カンボジアこどもの家」のスタッフであるN井さんが、日本に一時帰国したおりに、2回本校に来ていただいた。カンボジアのこどもたちの様子や、バナナと砂糖を使ったカンボジア風のお菓子作りを教えていただいた。その後、6月に栗本さんの講演をお聞きし、こどもたちは一人ひとりテーマを決めて、カンボジアのことについて調べ学習を行った。また、一年前の6年生のこどもたちからつながりのあるステンバット小学校(多くの大阪の学校関係者の支援により昨年春より開校している)のこどもたちと、絵や手紙の交流を行った。1年間の学習のまとめとして、ステンバット小学校のこどもたちへの支援(教科書を贈る)のための街頭募金活動を行った。そして、5万円を超える募金が集まり、今回カンボジア訪問を行うことになった。
卒業式の学校長の式辞の中で
「みなさんの前途は、洋々として広がっています。・・・・」
卒業生は、よびかけの最後に
「私たちは、未来に向かって 羽ばたきます」
と全員で気持ちをひとつにして声をそろえた。
果たして、カンボジアのこどもたちの前途は、ようようとして洋々として広がっているのだろうか?未来に向かって羽ばたくことができるのだろうか?
そんな思いを持ちながら、卒業式を終えて数日間で、3度目のカンボジアに向けての準備を行った。
○ 1日目(3月24日)
今回いっしょにカンボジアに行くこととなった学生さん。初めての海外旅行をカンボジアに選んだらしい。「なんと大胆な」と驚きながらも、(私と同じだと思いつつ)いざ日本を後にした。
本来なら、一日目は、タイのバンコクからカンボジアとの国境の町であるアランヤプラテートへ移動し、そこで宿泊する予定だった。しかし、明日一日遅れで5名の方が、同じようにカンボジアに来られるということで、バンコク出発は明日まで待つことにして、この日は、バンコクで宿泊をすることになった。夜は「タイ風すき焼き」?を食べながら、スタッフのN井さんといろいろな話をした。そこで、私は少し残念な話を聞いた。というのも、昨年から大阪の学校関係者で支援を始めているステンバット小学校では、最近授業がきっちりと行われていないらしいということだった。運営資金はもちろん私たちで、なんとかしていくのだが、学校の運営や授業は、もちろんその学校のカンボジア人教員が行うことになっている。こどもが学校に来ないからなのか、教師のやる気がないのか・・・。公立学校ではないので、カリキュラムが決まっているわけではなく、すべてカンボジア人教師にゆだねられている。またこどもたちの多くは教科書をもっていないので見通しをもって学習をすることもできないだろう。なんとか、1年前に開校したこの学校の運営が軌道にのることを願わずにはいられない夜となった。
○ 2日目(3月25日)
バンコクでの朝を迎えた。泊まったホテルが幹線道路沿いにあるためか、朝早くから車の通る音で目が覚めてしまった。朝食は、道路沿いに立ち並ぶ屋台で調達することにした。20バーツ程度(70円)あれば、1食分が買えるということで、バンコク市民は自炊をするより外食をすることが多いようだ。たまに、自炊道具がない家もあるらしい。ただ、道路沿いは、排気ガスや騒音のため、どうしても屋台では食べる気になれず、買ったものをもって、近くの大きな公園で食べることにした。その公園は、騒音もなく、大都会のオアシス的な存在だった。以前、N井さんが、この公園で読書にふけっていたときに、タイ人の女性が中央にある大きな池になにやら生き物を放しているのを見たそうだった。後でその女性の話を聞いてみると、何かお願い事をするときには、池に生き物を放す週間があるらしい。その後N井さんも、池に生き物を放したかどうかは・・・・?
朝食後、タクシーに乗り、タイの王宮(日本の皇居にあたるところ)を見学にいった。途中、王宮に近づくにつれて、街のあちこちに巨大な写真が掲示されていて、そのすべてが国王のお妃のものだった。私たちは、この国の王が女王なのかと錯覚してしまうぐらいだった。(数日後、栗本さんに聞くと、お妃の誕生日が近いのではないかということだった。)
王宮の中は警官などの警備も多く、入場するときには服装の制限もあった。素足でサンダル履き・ノースリーブの人は入れないなど、服装も厳しくチェックされた。ところでこの王宮は、あちこちに金が使われて、この世の贅の限りを尽くした建物だった。現在のタイの国力を示していることに気づかされる。(しかし、いくらきらびやかな宮殿でも、数日後訪れたアンコールの遺跡に比べると、私の中で感動はうまれてこなかった。)
その後昼過ぎに、1日遅れで到着した5人の日本人をバンコクの空港まで迎えにいった。
それからタクシーで一気にカンボジアとの国境の町までいき、夜の6時過ぎ、暗くなった国境を越えた。ここを通るのは、昨年の8月以来の約半年ぶりだったが、また1つ新たなカジノがオープンしており、その横には現在建築中のものもあった。カンボジアの国境の町ポイペットは、タイ人や豊かな外国人のための(カンボジア人は入ることのできない)カジノが乱立していくことになるのだろう。
この日はC.C.HOMEに7時過ぎに到着し、少し遅めの晩御飯を食べた。この日の夜は、広島県から平和貢献活動の調査にこられた方々数人(大学教授や県庁の方)もおられて、夜遅くまで、いろいろなことについて話をした。特に、広島では原子爆弾の被害から世界の平和に貢献するという現状から、今できることをはじめていくという。今渦中にあるイラクなどの支援も大切なことではあるが、そのような場所で一般の市民ができる活動には限界があると。内戦が終わって、見た目に落ち着いたカンボジアなら、一般の市民でもできることがあるのではないかと。現在のカンボジアは、世界中の人々の記憶から消されようとしているが、未だに内戦の傷跡が残り、様々な問題を抱えたままになっている。
○ 3日目(3月26日)
実は、この日の朝食前に、重大発表が・・・・。なんと栗本さんと、C.C.HOMEの代表であるカンボジア人の「お父さん」(通称)の長女・ペアさんが、21日に結婚をしていたということだった。N井さんによるとカンボジアでは、年齢差はあまり関係がないということだったが、およそ30歳も離れていることに・・・・驚いてしまった。すごい!!(お二人のこれからのお幸せをお祈りしております。)
ところで、今日から私はカンボジア人のロムさん(前述のペアさんの兄弟)といっしょに行動を共にすることとなった。私はクメール語のヒヤリングができないので、それを助けてもらうことと、ロムさん自身も日本語に慣れるためであった。
朝食後すぐに、日本からもってきた100本のリコーダーとカボチャ・キュウリ・ピーマンの種を持ち、バイクにのって私たち大阪の学校関係者で支援をしているステンバット小学校へ行った。しかし、学校に行くとこどもたちが学校に来ていない。本来授業が行われているはずの日なのだが・・・。実はこの村のお寺で何か大きな行事があって、村の大人もこども参加しているということだった。そこで私たちもそのお寺に向かった。お寺の周りにはサトウキビジュースを売る露店も出て、大勢の人でにぎわっていた。ロムさんの説明によると、この日、村の人がお寺に何かを寄進するという。それをみんなでお祝いしているのだそうだ。その場で、ステンバット小の先生と会い、昼から学校でリコーダーを使って授業をしたいということと、野菜の種をもってきたので、こどもたちといっしょにまきたいということを伝え、お寺を後にした。その後、ポイペットの市場で、肥料を買って帰った。
昼食後すぐに、またステンバット小学校へ向かった。今度は、こどもたちも学校にきていた。この日の午後からは、2・3・4年生が登校することになっていて、1時から3学年のこどもたち一人一人にリコーダーを手渡して、授業を始めた。実は、昨年8月に訪れたときにも、リコーダーをつかって授業をしたのだが、50本のリコーダーしかもってきていなかったため、こどもたちが、ふだんからリコーダーに親しむということができないでいた。今回は、3年生以上のこどもたち一人一人に1本ずつ渡して、個人のものとして使ってもらえるようにした。学校でも家でもぜひリコーダーに親しんでもらえればと思った。みんなで、8月に練習した曲を演奏した後、カンボジアの歌♪「アラピヤー」をいっしょに歌った。そして、今度は私がその歌をリコーダーで演奏した。これまでは、日本の学校で歌っていたものを、カンボジア人でもわかるよう楽譜を工夫してみんなで演奏していた。しかし、このリコーダーを使うと、カンボジアの歌や他の歌や曲でも演奏できるということをわかってもらえたんじゃないかと思っている。その日もその次の日も、学校や村のあちこちでリコーダーの音が響いているのを聞くことができた。
約1時間の授業の後、明日の種まきに向けて、畑作りをおこなった。ちょうど1年前、この学校の開校式に訪れた際、ただ野草しか生えていない枯れた土地でも、たくさんの植物を育ててほしいと椰子の苗を植えた。実はそのときも、最初は畑をつくりたいと思い耕してみたものの、ただ粘土質の土がでるばかりで、これではとても普通の植物は育たないだろうと思った。それでやせた土地でも育つだろうと教えてもらった椰子の苗をこどもたちと植樹した。しかし今回はロムさんにいい方法を教えてもらった。それは、道のあちこちに落ちている牛の糞をこどもたちに持ってこさせて、その糞と土をいっしょに混ぜればいいということだった。
日本では栽培としては使わないような場所で途方にくれそうな状態であったが、ひたすら耕していた。すると、午後からは授業のない1・2・6年生のこどもや授業を終えた大勢のこどもたちが、休み時間を利用して手伝ってくれたのでずいぶん助かった。いよいよ明日、ここにみんなで野菜の種を植えることができると思うとくわを持つ手にもしだいに力が入っていった。
夕方、午後の授業も終わるころ、いっしょにカンボジアにきた日本人の方が、日本からもってきたとび縄を使って、楽しく縄跳び遊びをした。はじめての体験なのに、こどもたちはすぐにマスターしたようで、このこどもたちの運動能力に驚かされてしまった。
帰り道、今建設中の新しいC.C.HOMEのキャンプ場にいった。広い台地に大きな池。レンガで建設中の新しい建物・・・・。完成が今から楽しみであった。
この夜、ちょっとしたハプニングがあった。C.C.HOMEから数十メートル先の原っぱから火の手が上がり、その勢いが激しくなってこちらに近づいてきた。火事か!と一瞬緊張した雰囲気になった。消火といっても日本のように蛇口をひねればいつでも大量の水を得られるわけではない。結局、よく行われている焼畑づくりだった。(それにしても、こんな夜に焼畑づくりなんてするな!)
今回ステンバット小学校の現状を見ていると、カンボジアの公立学校ではどんなカリキュラムでどんな授業が行われているのだろうか?知りたくなった。カンボジアのいろいろな学校の様子を見て、ステンバット小学校の支援の方法を考えていきたいと思うようになった。ところで、今ポイペット州には、中学校が一つしかないらしいのだが、州の依頼でC.C.HOMEで、新しく中学をつくり支援をしてほしいと依頼されているようだ。小学校を卒業しても進学する中学校がほとんどないのが現状なので、進学先が増えるという意味ではたいへんいいことなのだが・・・。
○ 4日目(3月27日)
朝食後、この日もロムさんといっしょにステンッバット小に行った。学校に着くと、すでにこどもたちが、昨日耕した畑にたくさんの牛の糞をまいてくれていた。粘土質で乾いた赤っぽい土が、糞のおかげで黒々とした土に変わっていた。これなら野菜も育ちそうだと思った。午前中は耕す作業をして、午前の授業のこどもたちにも家で野菜を育ててもらおうと、種を配った。
昼からは、植物をカンボジアの強い日差しから守るため、遮光ネットを市場まで買いに行き、その後学校にもどった。(これまで、私はカンボジアで活動するために必要なすべてのものを日本で準備して持ってこようとしていた。しかし、野菜の種を植えるにあたって、肥料や網などをこちらで購入できたことも、私の中でとても大きな収穫だった。)畑への種まきは、日差しが落ち着く夕方に行った。ひと通りの授業が終わった後、こどもたちと先生が全員畑に集まり、みんなで種まきを行った。その後キュウリの種をまいた場所に、学校の裏から切り出してきた木の支柱を立て、市場で買ってきた遮光ネットを張った。ピーマンは苗代のようなところにまき、ある程度成長したら植え替えてくれることになった。野菜がうまく成長して実がなったら、一部は給食で出され、一部は売って学校に必要なものを購入するそうだ。枯れずに成長してくれることを願っている。
また、新年度が始まる10月に、今里小学校のこどもたちが集めた募金などをつかってこどもたち全員に教科書を贈ること、こどもたちからの手紙などについても伝えた。
最後にあまった種をこどもたちに渡し、今回のステンバット小学校の訪問を終えることにした。帰るとき、先生方に今学校で必要なものは何かと聞いたところ、学校に門がないので造ってほしいということだった。(数日後、栗本さんと相談して、教科書を買いあまったお金で、門をつくる材料を買うことになった。)
この2日間ずっとロムさんと行動を共にして、クメール語の辞書を片手にいろいろな話をした。ロムさんの故郷のクラッチェ州のこと、小学校時代のこと、これから日本語や英語を学びたいと思っていること、カンボジアでもっとたくさんの仕事があればいいということなど。彼は、この夏ごろ日本に3ヶ月間やってくるということなので、ぜひ狭い我が家にもきてもらい日本のことを紹介したいし、また勤務する小学校でもこどもたちとも交流してほしいと考えている。
○ 5日目(3月28日)
今回、ぜひアンコール遺跡を訪れたいと思っていた。前回8月に来たときには、シェムリアップまできて地雷博物館を見学して、日帰りでC.C.HOMEに帰ってきている。しかし、日本のこどもたちに、カンボジアのたいへんな状況だけではなく、すばらしい文化などもぜひ伝えたいし、自分自身もそれを肌で感じたいと思っていたからである。今回は、一緒にきていた日本人全員が1泊2日で出かけることになった。
前回雨季にシェムリアップを訪れたときは、自動車の窓から川に飛び込んで遊ぶこどもたちや、はるかに広がる水田など、心を癒してくれる風景が広がっていた。しかし、今回は乾季の真っ只中、常に砂埃がまい、前を大きなトラックでも走ろうものなら、視界がまったくなくなってしまうような状況で、雄大でのどかな風景を期待していた私は、少し残念だった。 ただ、この後訪れる遺跡群には、驚きの連続だった。
昼ごろ、シェムリアップにつき、昼食後まず「ア・キラ地雷博物館」に行った。前回は、ア・キラ(カンボジア人)はいなかったが、この日は、本人がいて、直接いろいろなことを話すことができた。ふだん彼は、この地雷博物館にはいないらしい。というのも、各地の地雷処理にいっていることもあるのだが、以前この地雷博物館にある地雷を警察が没収し、ア・キラ自身も拘留された。地雷という危険なものを大量に集めて、たくさんの人々に見せていることが危険だという理由なのだが。(結局没収された大量の地雷は、国が作った有料の「戦争博物館」で展示されている。)その後警察は、この地雷博物館に来ては、ア・キラからお金をせびったり、また拘留される可能性があるので、めったに見学者の前に姿を現すことはないそうだ。たまたまこの日は日曜日で、警察も日曜日は見回りには来ないということで、私は初めて彼と出会うことができた。
その後、近くにある「アンコール動物園」に行き、いよいよアンコール遺跡のひとつ「プノンバケン」を訪れた。この遺跡は、アンコールの遺跡群の中で一番高い位置にあるので、シェムリアップの街が、またさまざまな遺跡を遠くに見渡せるようになっている。また、ここから見る夕日がとても美しいらしい。残念ながらこの日は少し雲があったので、夕日を直接見ることはできなかった。他の遺跡もそうなのだが、階段?壁?があまりに急で、人が上りにくいように造られているかのようだった。それにしてもこんな高い場所に巨石を運び上げ、そこに芸術的な彫刻を数多くほどこす技術には圧倒される。
この後、ゲストハウス近くで、クメール文化の一つである「アプサラー(天女)ダンス」を観ながら食事をとった。この踊りは、日本の「雅楽」を思わせるものだった。よく考えてみると、長い戦乱の中でこの踊りを伝える人も資料も失ってしまっている。しかし今この踊りを観ることができるのも、戦乱が終わった証である。それにしてもこのショーの最後に出てくる白い衣装を着たアプサラーの美しさには目をうばわれた。本来、踊りをおどるためには、手足が長い人たちの方がはえると思うのだが、出演している女性たちは、小柄な体格の人が多かった。今踊っている人たちは、まだ、内戦が続いているときに生まれた世代で、子供時代はきっと栄養が不足していたからだろう。身長を合わせるためには、小柄な人が集めやすかったのだと思われる。きっと、数年後また見る機会があれば、今よりも体格はよくなっているだろうと思う。実は、このショーが終わると、客がステージに上がって、アプサラーと記念写真を撮れると栗本さんに言われたので、何百人という観客の前で1番にステージに上がった。ステージに上がることが可能だということを知らない大勢のお客は最初どよめき?をあげた。しかしその後、他の観客も順にステージに上がり、写真をとってもらっていた。(ところで、私のカメラはそのとき電池が切れていて、残念ながら私のカメラにはアプサラーといっしょに写った写真は残っていない。)
○ 6日目(3月29日)
この日、ゲストハウスを朝の5時過ぎに出発した。日の出を「アンコールワット」で見ようということだった。しかし、同じように考えている観光客も多く、早朝だというのに遺跡に続く道はすでに渋滞していた。実際の「アンコールワット」は私が本などをもとに想像していたものよりもはるかに規模が大きいものであった。ある本にカンボジア人にとって「アンコールワット」は、カンボジアの歴史・伝統・風土を凝縮する存在で、クメール民族の魂であり、アイデンティであると記されていた。カンボジアの国旗の中央に描かれているのも、カンボジアのお札に描かれているのもアンコールワットである。カンボジア人にとっては、民族の誇りである。昨年の初め、タイ人の歌手が「アンコールワットはタイのものである」という内容の発言に対して、カンボジア国内でタイの役所が襲撃される事件があったばかりだが、それは「アンコールワット」に対する思いの表れである。ただ残念なことにこの「アンコールワット」を含む遺跡群を管理しているのは、ベトナム系企業だそうで、カンボジアの宝は実質カンボジアの手から離れて、ベトナムのものとなっているらしい。(カンボジアの役人が管理を委託しつつ、そこから私腹を肥やしているのではと、想像するのは難しいことではない。)多くのカンボジア人はそのことを知っているのだろうか?
話は戻るが、この遺跡の壮大さ・美しさ・神々しさなどは実際に目にして見なければわからないことで、「百聞は一見にしかず」ということわざは、まさにこの遺跡のためにあるのではないかと思うぐらいであった。
その後、巨大な顔の遺跡で有名な「バイヨン」、自然の驚異を見せつけれる「タプローム」、他の遺跡に比べて彫りが深くてさらに美しい「バンテアイスレイ」を見学した。多くの遺跡は、完全な形で整備されておらず、これから気の遠くなるような歳月をかけて修復を行わなければならない。しかし、この遺跡群が名実ともに、カンボジア人のもとに帰ることを望んでやまない。この旅行中、日本にとってこの遺跡群にあたるものは何かと考えたが、私は遺跡ではないが、「富士山」がそれに匹敵するのではないかと思った。
昼食後、日本人の森本さんが運営している「クメール伝統織物研究所」を訪れた。ここでは数百人の女性を雇用し、伝統的なクメール織りの製品作りと伝承を行っている。シルクでは、タイシルクが有名だが、このカンボジアのシルクと起源が同じだといわれているらしい。ここでは製造上出てくるくずのような物まで、その特徴を生かして100%捨てることなく使っているという。天然の材料だけを使い、人の力だけでつくるこのシルクの製品もカンボジアの文化を誇るものであることを実感した。
今回1泊2日という短い期間ではあるが、カンボジアのすばらしい文化に間近で触れ、感じることができ、ますますカンボジアという国の奥深さを実感することができた。ぜひ、支援しているステンバット小学校のこどもたちにも、カンボジアのすばらしい文化に誇りをもってもらいたいと思った。
○ 7日目(3月30日)
本来ならこの日の朝、日本に帰国している予定の日であったが、一日延長してこの日の午後、C.C.HOMEを出発することになった。午前中は、このポイペット州で唯一の?公立小学校をロムさんといっしょに見学をさせてもらった。いわゆるアポなし訪問なのだが、日本人教師が学校を訪問したいということで連絡をいれておくと、逆に盛大に歓迎を受けてしまうこともあるという。(まるでイラクのサマワに派遣されている自衛隊が現地の人から、その力以上のものを期待されているかのように・・・)今回はこの学校に支援をしたいという気持ちではなく、純粋に公立学校での授業の様子や施設を見学したかっただけだった。そして、公立小学校にあるものでステンバット小学校に足りないものはなにかということを知りたかった。
この学校のこどもの数はおよそ1000人。2階建ての校舎が3棟あり、ステンバット小のように、教室が土間ということもない。教室や図書館、職員室などいろいろな施設も完備されていた。誰が造ったのだろうかと思ったが、滑り台やブランコなどもあった。1年から6年生までの授業を見せてもらったが、授業風景は日本と特に変わらず、どの教室もこどもたちの元気な声が響いていた。もちろん教科書などの本も全員がもっていた。(ユニセフから寄贈されたのかも?)ただ、この学校を見学して感じたことは、教科書があるかないかということは大きなことだが、教室などの施設が恵まれているかどうかは、それほど関係はなく、やはり教師のやる気ひとつで、どうにでもなるなあと感じた。ただ、今回はかなわなかったが、いつかカンボジアの他の地域の公立学校を見学したいと思った。そして、日本での学校教育とカンボジアの学校教育の両方のよさを学び、ステンバット小学校に生かせていきたい。
C.C.HOMEでの最後の昼食を食べた後、乾季には珍しく、急に雲行きが怪しくなり、逃げるようにしながらトラックの荷台に乗ってポイペットの国境に向かい、カンボジアをそしてタイを後にした。
昨年同様、日本では満開の桜が迎えてくれていた。カンボジアやタイでは赤や黄色といったはっきりした原色の花を見てきたので、桜の淡い色合いが一層日本的だと感じた。
さあいよいよ日本は新年度。5月になるのか6月になるのかわからないが、ロムさんが我が家に、そして我が小学校にきてくれるのが今から楽しみである。そして、卒業生の行った募金で、ステンバット小学校のこどもたち全員に教科書が配られ、新しい門が造られた学校でこどもたちが勉強している姿を早く見てみたい。
♪ 僕らはきっと待ってる 君とまた会える日々を
さくら並木の道の上で 手を振り叫ぶよ
どんなに苦しい時も 君は笑っているから
挫けそうになりかけても 頑張れる気がしたよ