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期間:2006年2月16日〜2月22日 泉谷隆一郎さん(大阪府)


       「あなたにはカンボジアに何を見ましたか?」

          そんな問いかけのツアーだった。
 
 経済的な貧困を見るだろうか?豊富な資源を見るだろうか?

 無計画性を見るだろうか?先行きの不安にとらわれず「今を生きる」姿を見るだろうか?
 
 教育が行き届いていないと見るだろうか?頭より体を動かして生きていると見るだろうか?
 
 悲劇を見るだろうか?平安を見るだろうか?

 まるで、一つのグラスを横から見たら長方形と言い、上から見ると円というようなものかもしれない。

 さらに、その見え方はあなたの見る時、状態によって万華鏡のように変わるだろう。
 
 逆にカンボジアの人たちから見たら我々はどう写るのか?
 
 物がありふれていながら、年間3万人以上自殺者がでる国。

 人間関係という錯覚、憶測でうつ病者を多く出す国。

 自由結婚にもかかわらず3人に1人は離婚する国。

 戦争以上の自殺者(20分に1人)を抱えて、戦後という。

 ならば、戦争以上の自殺者が出ている今を、何と呼べばいいのか。

      私も支援するつもりでこのツアーに参加した。

       しかし、そこに見た子供たちの顔は

、      「今、生きている!生きているんだ!」

            そんな力を感じた。

 生きながらに死ぬという芸当をしてきた私にとって、深い眠りから覚めた気がした。

       「支援する」そんな概念の滑稽さに気づいた。

          日が昇れば動き、沈めば眠る。

 何年先の心配をせず、ただ今を生きる。道には駄菓子屋があり、1ヶ月に1回、紙芝居がある。

 黒髪の下には、シャイで、はにかむ笑顔。

 家にはドアはなく、ましてや鍵などない。

 ここの家の子供、よその子という区別はなく、いつの間にかやってきて、日が沈むと、いつの間にか帰っていく。

 電気がないからまったくの暗闇に溶け込むように家路につく。

 ハンモックで寝る子供を揺らしながら、子守唄を歌う母親。

 犬、にわとり、とかげ、牛、すべてが混沌と入り混じっている。

         そしてそれが、窮屈ではなく自然に溶け合っている。

      これはもしかして、昔の心おだやかな日本の風景かもしれない。

    カンボジアの子供たちにこんな質問をしたら滑稽かもしれない。

 「なぜ遊んでるの?なぜ生きてるの?生きる意味は?目標は?1年後は?10年後は?」

 おそらく首をかしげて、すぐにサッカーの輪に帰っていくだろう。

 そして日本人はこのカンボジアの子供たちを見てきずく、いや、思い出すだろう。

 ほんとに楽しいときは、「今、楽しいだろうか」という考えが浮かぶ余地もない。

 今を生きているときに、「先行きはどうだろうか?」という考えが浮かぶ余地がない。
 
 なぜ遊ぶか、「楽しいから」、なぜ生きるか?「楽しいから」、何になりたいか?

 「今の自分以外、何にもなれない」

 そんなことを気づかず、楽しんでる彼等、そしてわれわれ日本人はそのことに気づきながら楽しむときかも知れない。

            不幸の原因、恐怖、劣等感
 
 そこからくる目標思考、健康志向、経済発展、議論、競争、出世、さらに期待、夢。

 実はそれは幻想であり、今こそ解放され、真っ暗の部屋に、明かりがいっきにともるように思い出すだろう。

     目的地などなく、我が家から一歩も外に出ていなかったことに。

               地球という我が家

                魂という我が家
             
            そして、あなたはあるがままで

              たった今すばらしいと。

            「なぜまたカンボジアに行くの?」

              「ただ、会いたいから。」