動き出すかミャンマー農業

「社会主義放棄」後を見る


中村均司



ミャンマーという国−かつては三大米輸出国の一つだった…
戦前、大陸部東南アジアに、ビルマ(現ミャンマー)、コーチシナ(現在のベトナム、カンボジア、ラオス)、タイの世界三大米輸出国があった。中でもビルマは「アジアの米ビツ」といわれ、年間300万トンの米を輸出する世界最大の米の輸出国であった。
 戦後は国際米市場のひのき舞台から姿を消し、その状況は現在に至るまで続いている。この国でいったい過去何があり、現状はどうなっているのか、他の東南アジア諸国と比べ、情報は格段に少ない。しかし、先の大戦時の我が国とビルマとの関わりを省みるならば、この国に私たちはもっと関心を持ってよいし、持つべきであろう。昨年11月、未だ情報の多くはないこの国の農業事情の一端をかいま見る機会を得たので、その概況を報告することとしたい。
 ビルマは1948年にイギリスからの独立を果たしたが、その後の国内政治の混乱とそれに続くネーウイン率いる「社会主義計画党」の1党独裁体制による経済の国有化施策、そして、外交的には鎖国政策が長く続いた。しかし、1980年代に入って、国営経済が破綻し、かつ有効な改善手段をとれないまま、国民生活は窮乏化を深め、1988年7月に始まる反政府・民主化要求の国民暴動へと国民の怒りが爆発した。それまで26年間軍部独裁を続けてきたネーウイン議長は辞任に追い込まれ、民主化を求める国民的な運動は勝利を目前にしたように見えたが、9月18日国軍が軍事クーデターという形で全権を掌握し、民主化運動を武力で抑えることとなった。民主化運動の象徴であったアウンサン・スーチー女史の自宅軟禁をはじめとする民主勢力の徹底的な弾圧政策に対し、西側諸国は軍政非難を強め、特に1988年以来ODAが停止されたままになっている。
 このため、経済は極度な不振に陥っており、これ以上の諸外国からの非難は経済の建て直しのためにも許されない状況にある。軍政は少なくとも前政権時代の基本的政策であった「ビルマ式社会主義」の放棄は明言しており、政治的な展開は予断を許さないが、経済的には開放・自由化の方向を取り出したことは事実である。なお、1989年に国名が英語表記のビルマからミャンマー語表記のミャンマーに変更された。


ミャンマーの農業概況−65.5%が農業就業人口、自由化いまだし
インド、中国、タイに接するミャンマーは、南北約2000km、東西約1000kmと南北に細長く、国土面積約67.7万平方km、人口約4000万人であり、日本の2倍近くの国土に日本の3分の1の人口を擁している。気候は熱帯モンスーン型であり、3月〜5月中旬の暑期、5月下旬〜11月の雨季、12月〜2月の乾季に分けられる。南部平野と北部の湿潤地帯の気温差はそれほど大きくはなく、中部乾燥地帯とシャン州が内陸的気候を示している。ミャンマーの農業気候条件は、赤道上の気候から、冷涼な温帯気候にわたっていることから、モンスーンアジアに普通にみられる食用・工芸作物のほかに、赤道地帯の熱帯作物(ゴム、ココア、アブラヤシ、ココヤシ)や温帯果樹(リンゴ、ナシ)など、多様な作物の栽培に適している。
 ミャンマーの国民総生産(GDP)の伸びは低調であり、部門別構成も農業38%、製造業9%となっており、80年代を通じほとんど変化が見られない。また、就業者人口のうち農業就業人口が全体の65.5%、製造業が7.3%となっており、これらの数字は他の東南アジア諸国に比べ工業化が進んでいないことを示している。ビルマ社会主義計画党は、実際に土地を耕作する者に耕作権を与えたので、小規模経営が多い。1戸当たり平均耕地面積は5.7エーカーであり、5エーカー以下の農家戸数は全体の62.3%であるが、その耕地面積は全体の23.6%にすぎない。1988/89年度の全作付面積は2434万エーカーであり、そのうち49.5%に米が作付けされている。次いで作付け面積の大きいのは、ゴマ、ラッカセイ、ヒマワリなどの油料作物であり、これらは米と並んでミャンマーの食生活の基幹となっている。
 「ビルマ式社会主義」体制下では、農民は建前上、自営が許されていたが、多くの生産物は国家への販売(供出)が義務づけられていたなど、流通・金融などの面から国家によって厳しく制限・管理されていた。前政権下の1987年こうした管理農業が生産停滞の原因だとして、米などの主要農産物11品目の取引が自由化され、市場メカニズムの導入が図られた。
 しかし、突然のこの措置によって農産物取引は混乱し、投棄買いが横行して農産物価格が急騰した。このため、輸出用の米や工業用原材料としての綿花、サトウキビ、ジュート、油脂作物等の国営企業への販売量が激減し、国営企業は経営難に陥ることとなった。こうしたことから、軍政は再度主要農作物については、国営企業への割当供出を再開した。軍政は一方では経済の自由化を推進するとしながら、依然として国営企業擁護のために、農業でも自由化を制限的にしか行っていない。この国の農業生産発展のためにも、自由化、民営化の動向が注目されるところである。

稲作の現状−「緑の革命」頓挫し、単収も頭打ち傾向
1994年のミャンマーにおける稲の作付面積は648万ha、ha当たり籾収量は2942kg、籾生産量は19百万tであった。アジアの主要な米生産国と比べると、作付面積ではタイより少なく、ほぼベトナムと同じであり、単収はタイより多いが、ベトナムより少なく、フィリィピィンと同程度、生産量はほぼタイの生産量に匹敵している。戦後一貫して国内での米自給を達成してはいるが、輸出量はわずかであり、戦前と比べるべきもない。
 稲はミャンマー全域に栽培され、播種面積の約50%を占め、その過半はエーヤワディー川(イラワジ川)下流域のエーヤワディー、ヤンゴン及びバゴー各管区のいわゆる下ミャンマーに集中している。灌漑面積は全体の17%であり、これらは主として乾燥地帯であるミャンマー中部のマンダレー及びマグェ管区にある。全体の80%を占める天水田の大半は平坦地である。
 実際に水田に降り立ち、水稲を手にとって見たのは、首都ヤンゴンからバゴーへの途中、バガンから東南のシーピンター村、それにマンダレーから東北のパッティージの3地点であった。いずれの地点でも高収量品種(High Yield Variety:HYV)が作付けされ、後の2地点では在来品種も併せ作付けされていた。
 HYVがミャンマーにはじめて紹介されたのは60年代であったが、実際に農民に浸透したのは70年代後半からといわれている。すなわち、ビルマ政府は1976年から食料増産計画として、ビルマ版の「緑の革命」をスタートさせた。全国に重点地区を設けHYVを集中的に導入するキャンペーンを展開した。HYVの平均単収は在来種の40〜50%増であり、HYVの普及とともに1976/77年から1980/81年までの米の生産量の増加率は53.6%で、年率平均10.8%の伸びを示した。しかし、HYVの普及は、もともと条件の良い水田を中心に栽培され、本来伴って実施されるべきほ場整備や灌漑網への投資がきわめて小規模であったこと、どんなに収量を上げ生産量を増やしても、米価が抑制され、さらには化学肥料や農薬などの農業資材の不足もあって、ビルマ版の「緑の革命」はすぐに行き詰まり、1980年代に入って頓挫し、単収もその後頭打ち傾向となる。
 特に、軍政となった1988年以降こうした農業用資機材及びエネルギーの不足は更に深刻化して、農業生産への影響はきわめて大きくなっているといわれている。実際に見たHYVは総じて穂数が少なく草丈も低く感じられたのは、あるいはこのような背景があったからであろうか。また、バゴー近郊のほ場では水稲の2期作を呼びかける政府の展示ほもあったが、その生育は周辺ほ場の稲よりも一層劣るものであった。なお、HYVは食味が劣り、農民が自分の家で食べているのはもっぱら在来種であるとのことである。在来種はいずれも草丈が高く、穂の色も赤や黒のものなど多様であった。1993−94年における播種面積比率はHYVが54%、在来種が46%である。ほ場で見たHYVや多様な在来種はいずれも長粒種であったが、東部シャン州のタウンジーの市場ではかなりのジャポニカ種が見受けられた。
 11月のこの時期は、カウイン、カウラットと呼ばれる早生、中生品種の収穫時期に当たり、バゴー近郊では、ディーゼルエンジンによる機械脱穀が行われていた。一方、マンダレーの市街地の西側を流れるエーヤワディー川(イラワジ川)の流域は雨期の間の洪水の面影を残すに十分なほどに、まだ多くの耕地や道路が水没していた。しかし、マンダレーの東北に位置するパッティージは収穫の真っ最中であった。稲刈りは日本の収穫鎌とちょっと形の異なる鋸刃の鎌で行われていた。刈り取り風景は日本でも30年ぐらい前までは広く農村で見られたものである。黄金の稲穂の中を牛車の列がゆっくりと通り過ぎていった。
 パッティージにおける1農家当たり平均的な耕作面積は3〜5エーカー(1.2〜2.0ha)、単収は60〜70バスケット/エーカー・作期(1バスケットは46ポンド、10a当たり籾で307〜358kg)であり、1エーカー当たり12バスケット(10a当たり約61kg)を政府に納め、それ以外は自由販売である。政府は1バスケットにつき70チャット(1チャットは約1円)を農家に支払うが、自由米は1バスケット350チャットぐらいで売れるとのことである。パッティージでは大体2期作が行われているので(一部では3期作も行われている)、前述のほぼ倍が年収になる。除草は手と簡単な器具で行い、労力は助け合いで補われている。
 なお、バガンの市場のなかの米屋で売られていた米の値段(いずれも15ポンド:6.75kg当たり)は次のとおりである。インディカの白米90チャット、同新米55チャット(新米の方が安い)、ジャポニカの糯米100チャット、赤米70チャット。



試験研究施設を訪ねて−日本の資金・技術協力で、新鋭研究施設も
 私たち一行(ミャンマーの農耕文化を訪ねる旅)はミャンマー政府の取り計らいによって、幾つかの農業関係施設を訪れることができた。ヤンゴンから東北へ36マイルのところにあるミャンマー農業サービス・野菜果樹研究開発センター(V.F.R.D.C)、バゴーにあるミャンマー農業サービスセンター、ニャウンウーにある農業プロジェクトなどである。いずれも、野菜・果樹の研究・普及機関であった。
 V.F.R.D.Cは1986年、JICAを通じて日本の資金・技術援助によって設立された最新鋭の研究施設であり、広さは250エーカーである。設立目的は、@野菜とフルーツについての研究開発業務の指揮管理、A野菜とフルーツの内外の品種の蒐集と選抜、B良質の野菜種子及び果樹苗木の生産と配布、C栽培者への最新技術の移転 である。組織機構は、庶務管理、野菜研究、フルーツ研究、植物防疫、土壌科学、組織培養、種子生産、作物生産、農業機械の9部からなっている。対象作物としては、ウリ科、ナス科、マメ科、ハイビスカス科、アブラナ科(以上は野菜)、マンゴー、パメロ、レモン、グアバ、バナナ、パパイア、カシューナッツ、ジャックフルーツなどの熱帯果樹で多岐にわたっている。
 ほ場ではショウガが収穫され、女性の作業員によって水洗いされていた。また、大きなキュウリの塩蔵施設があり、漬け物原料として日本へも輸出したい意向であった。所長の話によれば、ミャンマーの農家の50%は種子を購入して野菜を栽培しているが、ミャンマーには台湾資本の種子会社が1社あるだけで、種子の大半は台湾やタイ、インドなどの周辺諸国から入ってくるものであり、今後は種子会社の導入設立を図って行きたいとのことであった。V.F.R.D.Cには1988年2名の日本人専門家が半年間派遣されたが、研究能力はいまだ不十分であり、今後の技術協力等が望まれている。
 ミャンマー農業サービスバゴーは、1991年に開設され、約7haの広さを有し、野菜・果樹の実験・普及を行っている。現在、近隣の農家に15種類の野菜と10種類の果樹の種子や苗を供給している。また、施肥方法などの技術移転もこの機関を通じて行われているようであった。
 世界的な「バガンの遺跡」への空の玄関であるニャウンウーにある農業プロジェクトは、1970年に設立され、ブドウを中心とした果樹・野菜の研究を行っている。ブドウは20種類ぐらいの品種比較を実施しており、日本の甲州やイタリアからの導入品種もあった。ミャンマーのオリジナル品種ではシュエンニィーが代表的である。ブドウは一年中葉が繁っているので、年2回剪定を行い、葉を除去する。この結果収穫期は第一回が4月、第二回が10〜11月である。ほ場では棚仕立てもあったが、垣根仕立ての方が多く、ちょうど剪定が実施されているところであった。ブドウは収穫後、生食の他、ワイン、干しブドウ、缶詰めなどに利用される。ほ場ではブドウの他、緑豆、落花生、ナスなどが収穫を迎えていた。

市場で親近感
 バゴー、バガン、ニャウンウー、タウンジーの街々では市場も訪れたが、中国や東南アジアに共通した活気に溢れ、野菜や果物も種類・量ともに豊富であったように思われた。また、納豆、豆腐、なれすしなど我が国と共通する食べ物も多く見受けられ、ミャンマーという国とそこで生活する人々に対し、親近感がわくのを禁じえなかった。

インレー湖の浮き畑−80の島に18村、5万人余、学校も水の上
 旅程の最後に訪れたのは、ミャンマー東部シャン州にある州都タウンジーとインレー湖である。住民の中に占める割合もビルマ族は少なく、シャン族をはじめとする山岳少数民族の多い土地である。インレー湖の北約27kmのところにあるタウンジーはシャン州の中では最も大きな町で、高原なので暑期でも結構涼しい。私の訪れた11月半ばの夜は肌寒いくらいであった。タイや中国にも近く、市場では中国の影響を感じさせる。
 インレー湖は海抜870mほどのシャン高原にあり、東にはイン山脈、西にはレッマウンクエー山などの山々がそびえている。湖の一部は湿地帯のようになっており、全体の大きさは南北に22.4km、東西に11.9km(我が国の琵琶湖は南北63.5km、東西最大幅22.8km)。水深は浅く、乾期の終わる頃には2mぐらい、雨期の終わり頃でも6m程度である。インレー湖には、80の浮島があり、水上に18の村を作っている。家も学校も水の上。1985年の人口調査によると、この湖上に浮かぶ島々には、5万3518名の人が住んでいるといわれている。舟が唯一の交通手段で、彼らは世界でもめずらしい、片脚を器用に使って櫓を漕ぐ名人ー少数民族のインダー族である。
 彼らは湖上に浮かぶ「浮き畑」で野菜を栽培し、インレー湖の魚を捕って生活している。「浮き畑」はインレー湖に生えている水草を集め、束ねて水に浮かべ、その上に作物が作られているもので、その面積は以前よりも増えているとのことであった。見渡す限りの「浮き畑」は壮観であり、インダー族の何百年にも及ぶ営為の結果でもある。山の頂まで天高く、祖先から営々と造作されてきた我が国の棚田にも相通じる耕作民の執念を見る想いであった。
 舟がぎりぎり通れる水路幅を有し、水草を集め作られている畝を連ねて「浮き畑」は構成されている。畝は竹竿で湖底に固定されているが、財産分与などの時には、この畝を自由に湖上を移動できるそうである。管理作業等はすべて舟に乗って行われる。この畝にはペインというサトイモに似た作物とトマトが作付けされており、トマトは株間20〜50cmで植え付けられていた。地下部は水面下であり、世界で最も古い水耕栽培といえなくもない。この「浮き畑」には稲も栽培されていたが、この場合、稲は水稲あるいは陸稲どちらの範疇に入るのか、同行された渡部京都大学名誉教授に問われたが、返答に窮したものだ。
 インダー族はなぜ水上に「浮き畑」を作るのだろうか。第一に、湖の周囲には急峻な山地が迫っており、耕作に適する平坦地が少ないこと。第二に、雨期と乾期で4mもあるインレー湖の水位変動にも「浮き畑」であれば水位変化に応じて畝が上下するのでその影響を受けないこと。第三に、「浮き畑」栽培は一種の水耕栽培と考えられ、野菜を作付けても連作障害が回避できること。第四に、湖の水草という無尽蔵の資源を活用して「畑」を創出できることなど、水上生活者のインダー族にとっては、きわめて理にかなった耕作方法といえるだろう。舟の起てた波に揺れる「浮き畑」を眺めながら、農耕の多様性と時間を越えた伝統農法の生命力に魅了させられた一時であった。

結びに−自由化 、民営化が農業発展の決定的な条件
 ミャンマーの経済発展の方向として、今も低位にある工業部門の開発は重要ではあるが、急速な工業化は条件的に困難であるし、ASEAN型の工業化もこの国にそぐわないように考えられる。当面は、農業を主体とした第1次産業の開発・改善を基礎とした経済発展の可能性が大きい。その際、自由化、民営化がこの国の農業生産発展のためにも決定的な条件となることは明らかであり、この国の動向に今後とも注視するとともに、真にこの国の将来にとって有効かつ効果的な我が国の農業・経済協力のあり方が望まれている。
 「ミャンマーはなつかしい未知の国ー乏しい物のなかで、満ちたりた瞳をした人びとの住んでいる国です。」と手元にあるガイドブックに記されている。
 ある村のほ場で、畦畔からあぶなかしく水稲の草丈を計測していたところ、そばで見ていた農民が突然履き物を脱いで、水田の中に入り、スケールを稲の株元に当ててくれた。他の村でもこのようなことが少なからずあった。信仰心の篤い仏教徒であるミャンマーの人たちは、困っている人を助けたり、施しを与えることを無上の喜びとしているようである。また、貧しい生活のなかでも、ミャンマーの子供たちの瞳が理知的で澄んでいたことが印象的であった。そんな子供たちを見ていると、この国の将来は豊かで輝かしいものになるに相違ない、きっとそうあってほしい、と願わずにはいられなかった。
(『技術と普及』1996年7月号より転載)