巻頭エッセィ
稲作文化をめぐって
渡部忠世



稲の成立−中尾佐助さんのこと
稲作文化というに値する文化複合などは世界に存在しないと、かつて中尾佐助さんは主張していた。その頃は、中尾さんだけでなく、一般に稲はインドの熱帯低湿地に成立し、アフリカから由来のミレット(雑穀)栽培の亜流として、そこに稲作、すなわち稲の栽培が始まったと考えられていた。
やがて、中尾さんは、「インド圏を除外しての」アジアの範囲に限っては、ひとつの普遍性を示す稲作文化が存在することを肯定し、また稲を含むアジアのいくつかの栽培植物が、中国の四川、西蔵、貴州、雲南などにまたがる「東亜半月弧」に成立したと書いた。それと前後して、わたしも稲が「アッサム・雲南」の地域に成立してアジア各地に伝わったと述べた。
個人的なことを書くが、中尾さんとわたしは若い頃から稲のことについて議論し合ってきた仲だが、その起源について二人の意見が接近したのはかなり遅くなってからであった。中尾さんが亡くなられる半年ほど前のこと、こんなことをわたしに語られた。「最近、中国の考古学者が長江流域の遺跡などを掘って、この出土米が最古だから稲の起源はここだ、あちらだなどといっているようだが、どうせ奥地まで掘ることはないだろうから、われわれの主張とは最後まで交わることはありえないだろうな。結局、彼らとは文明史観が相違するとしかいいようがない」。 文明史観などというところは、中尾さんだからこそ言えることであろう。
今、ここで起源の問題のあれこれを述べるつもりはないが、中尾さんやわたしの考えに対する反論のひとつに、栽培稲の祖先であると考えられる野性稲、オリザ・ペレニスが四川や雲南など、そんな山の中に分布しているはずがないというのがあった。
貴州、雲南にしろアッサムにしろ、こうした丘陵地帯は少し奥地に入ったらわかることだが、かなり凸凹のある地形である。丘陵の窪みの部分などには、雨期ともなると長い期間にわたって(年によっては3ヶ月にも及ぶというが)浅く湛水する。今でもこの地帯には焼畑が広くおこなわれているが、傾斜面は当然のこと、そうした窪地にもかなり広く「湛水状態の焼畑」が見られる。面白い問題だが、詳しく述べる紙数がない。こうしたところなどにオリザ・ペレニスが自生している。中尾さんやわたしはアッサムでも雲南でも、そのことを確認している。
要するに、稲は丘陵に出自した作物である。江南デルタまでの長い道程もここから出発した。しかし、長江を媒介とした中国内部での伝播はそれほど長時間を要しないで完了したものと思われる。このようにして、稲作文化は森の文化の延長線上にあると考えるのが、中尾さんやわたしの考えの基本の思想である。あえていえば、ひとつの農業史観からの主張でもある。
稲作文化の展開−インレー湖畔を例に
稲がアジア各地に伝わり、各地に稲作が定着して、それぞれの場所にひとつの文化が成立するに至る経過を語りだすと、一冊や二冊の書物では足りないことにもなろう。どこか、たとえば東南アジアのどこかの土地を選んで、そこでの事情をもって全体の説明に代えることにしようと思う。
ビルマのインレー湖のことを述べてみよう。他の土地でもよいのだが、インレー湖の辺りのことはあまり報告されていないし、何よりも湖畔の美しい景色が忘れがたいゆえでもある。インレー湖は、できたら地図を見ていただきたいが、シャン州の西南に位置するこの国最大の湖である。サルウィン川の支流、ビル川の上流が古くに細長く陥没してできあがった。
シャン州のことを少し述べる。ビルマ最大の州で、全体が高原状で、平均年間降雨量が1,000〜2,000ミリ、主な農産物はコメ、茶、ジャガイモなど。稲作の面積は35万ヘクタールと広い。人々の多くは、高床の住居に住む。ついでにいえば、第二次大戦前はサオパ(藩候)支配下の準独立国で、州都はタウンジーである。インレー湖に至るには、ここから車で一時間半程かかる。
稲のことにもどる。この辺りに稲作が始まった時代は定かにしがたいが、かなり古くにさかのぼることは間違いない。土地の古老はサルウィン川に沿って北方から伝わったと述べていたが、周辺の棚田がもっぱらモチ稲を栽培していることなどからみて、東方のタイ国からの伝播も考えられるが、詳細は明らかにしがたい。
いずれにしても、前項に述べたような丘陵に出発した稲は一次的には東南アジア大陸を貫流する大河川沿いに展開し、ここインレー湖畔のような高原、扇状地や小盆地などで栽培された後に、デルタにまで進出した。東南アジアに限っていえばデルタが今日みるような代表的稲作地帯となるのは、そんなに古いことではない。
インレー湖畔の食物を調べてみる。モチ米、餅、緑茶、糸引き納豆、なれずし、味噌、木々の若芽の漬物、蜂の子や蟻など。(蟻を除けば)わたしたちが「日本的食文化」などと称するもののセットの大半がここに存在する。東南アジアの稲作地帯全体がこの通りなどとはいえないが、稲作文化に複合する食素材のようなものを考えさせるに十分な内容であろう。
美しい高原と湖、モチ稲をつくる棚田、高床の家に住んで緑茶を飲みながら餅、納豆、なれずし、味噌、漬物などを食べる人々の生活が、ひとつの文化を守り伝えている。ふと、稲をつくるどこか日本の村の風景と人とがダブってくる。稲作の文化圏とは、典型的にはこんな描写が可能な空間で、前項に述べたように、中尾さんが「インドを除く」といった気持ちがわからなくもないが、これには反論もあって、稲作の展開の問題などにはまだ残された未知のところが少なくない。
(『FRONT』Vol.7, No.9, 1995より転載)